tag:blogger.com,1999:blog-21206794090387079422024-02-19T20:21:19.075+09:00SourceNotes to the Future.Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comBlogger191125tag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-70461705016007041962023-11-17T23:25:00.004+09:002023-11-17T23:25:39.675+09:00音楽を聴いていない<p>しばらく、音楽を聴いていない。</p><p>2020年になってから、ホールに足を運ぶこともなくなってしまった。</p><p>たまにバスに乗ると、Spotifyをつけてぼんやりと最近のヒット曲を流してみる。1人の時間は貴重で、移動中は考えごとに事欠かない。あの仕事をどうしよう、あの相談ごとをどうしよう、家のことをどうしよう。アプリを開きながらニュースを眺めてまた考えごとをする。あれこれ考えていたらオフィスに着く。</p><p>聴く集中力がすっかりなくなってしまった。</p><p>---</p><p>今日からひさびさに長い休みをとることができた。2週間の休みだ。何をしようかなあ・・と考えている。ようやくPS5が届いて、さっそく今週からぽつぽつとFF16をはじめてみた。だがあまり長い時間できないので、1日1時間くらい、まるで小学生のように隠れながらこそこそとやっている。それはそれでいいが、長い時間集中してやるのはむずかしい。むずかしいというか、気が向かない。</p><p>ちょっと振り返ると、ここ2年は日中に集中力を固めてつかっている。あっという間に時間が過ぎる。時間との戦いを続けている。短く集中し、一気に終わらせ、やってみて、また繰り返す。働く時間は減ったが、つかった集中力の合計は増えているような感覚がある。朝か夜は頭をリセットしてなにか本を読む。別の人が話していることが刺激になって、少しずつ考えをまた積み重ねて補強していく。読書はテーピングに近いかもしれない。なにか糸口がないかを常に探している。学ぶしか活きる術はない。それで2年が過ぎた。頭を休めるのがへただなあ・・と思う。</p><p>最近は夜更かしをしていない。というより、できなくなっている。遅くても23時に寝て、7時には起きる。今日は珍しく起きている。</p><p>---</p><p>何をするかなあと思っていたら、昔の録音を見つけた。もう何年前だったか・・・Spotifyで聴けるようになっていた。いまじっくり聴きながらこれを書いている。あーちょっと入りが早いな、もっと奥行きがほしいな・・と思いつつ、でもなかなかいい響きだなあ・・とも思う。</p><p>記憶が戻ってくる。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-18257469443281022722023-11-11T20:32:00.002+09:002023-11-11T20:32:07.747+09:00子育ては奇跡の瞬間の連続<p>息子も少しずつカタコトを話すようになってきた。</p><p>ママ、パパ、わんわん、ブーブーなどはよく口にしている。まだ好きなりんごのことはことばにできないけど、りんごが好きだということはわかっている。いやなら首をぶんぶんとふるし、ほしいものならにこにこして走ってくる。半年前にはわかりづらかった意思表示も、すごく大きく、豊かになってきた。意思疎通ができてとてもうれしい。</p><p>ものがわかるようになってくると、やりたいこともたくさんでてくる。道をあるけばコスモスににこにこし、おさかなをあっといいながら指差して近づいていき、はとがいればおいかける。わんわんがいればわんわんわんわんと指をさし、おばあちゃんおじいちゃんとすれちがえばにこにこしている。ものがみえて、わかる、というのはうれしいのだなあと思う。</p><p>本のなかのことと、実際の世界のことも少しずつつながってきているようだ。本のなかのわんわんもわんわんだし、道を歩いているわんわんもわんわんだ。しかもチワワ、トイプードル、ダックスフンド、ブルドッグ・・などなどわんわんの種類によらずわんわんだいうことがわかるらしい。これはすごい。なんでわかるんだろう・・・。ものがわかる、というのはどこからか教えていないことまで飛ばして何かが起きて、わかることがぽんぽんと増えていくようだ。</p><p>電車にのっていればずっと窓の外をみている。電車がすれちがうとうれしいらしい。そして窓から車がみえるとうれしい。なかでも大きな車がみえるとぶーではなく違うことばをだしている。なにか違いがあるらしい。今日はタンクローリーがくるくるしているのをまじまじとみていた。まわるものがすきらしい。動物園に行ってわにさんだよ、といってもわにのことは興味がなく、天井のプロペラのほうを指さして満足げである。おもしろい。</p><p>そうかと思えばごはんを床に撒き散らし、飲んだ水を部屋のなかを歩き回りながら吹き出し、にこにこして走り去っていく。まさに愉快犯である。まったく悪気がない。いまのところ反省するという概念はまだ彼のなかにないらしい。面白い。泣くか笑うかしかない。お腹が空くと泣く。いや、ちょっとママに甘えて、おやつをくれーと寄っていく。自分のほうにはこない。しばらくもらえないとふてて泣き始める。そういう段階がある。ただ悪気だとか悲しいとか、そういうのはあまりない気がする。ただ徐々にそういった感情の種類が増えている。</p><p>毎日、毎週、どんどんかわっていく。話しかけて、さわって、みて、なにか感じたことがどんどん増えていく。大人の観察が間に合わないくらい、多くのことを学んでいる。気づけば親ふたりの口癖を真似し始めている。洗濯物をもちあげるとき「よいしょ」といえば「んしょ」と真似している。そんなことは真似しなくていいのに・・というものまで真似していく。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-76448972186917471282023-08-09T09:09:00.003+09:002023-08-09T09:09:39.966+09:00学ぶほど謙虚になる<p>多くを知る人ほど、謙虚に見える。</p><p>経験あるメンバーと長く仕事をするなかで感じるのは、学び続けてきた人ほど謙虚だということだ。専門性も、技術も、もともとは自分の中ではなく外にあったものである。無から何かを身に着けたのではなく、本やインターネット、あるいは外の何らかの媒介を通じて情報を得ている。調べ、考え、組み立て、理解する。これを重ねていくと、自分は多くを知らないことに気づく。謙虚な学びの習慣のある人は、自然とまわりから信頼される。</p><p>これらの人はただ情報を得るだけではなく、自らが可能にするプロセスを経ている。ただ知識をそのまま横に流すのではなく、どのようにすれば自分がそれを扱えるのかを試行錯誤して身につける。情報をそのまま頭にいれるだけでは何も起きない。組み合わせ、考えて知識とし、自ら試し、失敗し、そして実践知として蓄積することで可能に近づく。学びに謙虚であるほど、過去にとらわれず、物事を新しい目で眺め、観察し、そこから新たな学びを得る。</p><p>謙虚ではない人は、物事の小さな違いに気づかない。こうに違いない、という過去の目で物事を見る。情報を得ても、実践せず、経験せず、振り返らない人に学びはついてこない。</p><p>---</p><p>組織において、謙虚に学べる人は地味に見える。</p><p>地味でよい。組織の価値観として、積み重ねや知識への貢献の素朴さを尊重し、自然と現れる謙虚さを喜べるか。リーダーシップやオーナーシップよりももっと内面的であり、ものを深く考える人に姿勢としてあらわれる、内在した想い。自分はこれらを汲み上げられる人でありたい。</p><p>---</p><p>先人に感謝し、学びを還元する組織でありたい。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-54702279866693034202023-05-07T14:40:00.003+09:002023-05-07T14:40:30.758+09:00経験からしか身をもった話はできない<p>プログラムを少しずつ書いて試すことは、多くの発見をもたらしてくれる。エディタがどう動くのか、エラーはどうでるのか、補助ツールはどう動くのか、どれくらいさくさくと動くのか、この言語はどういう特徴をもっているのか、どういう作りやすさがあるのか。ただ読んだだけではなく、自分の手元で動かすことで多くの感覚が開き、教えてくれる。</p><p>やってみたことがないものを話すのは難しい。やってみたことがないものは、自分の感覚からくる言葉に変えることができない。</p><p>---</p><p>最近息子が歩きはじめた。まだ5,6歩進むのがやっとだけれど、歩くのが楽しいらしく、にこにことしている。うまく受け身をとれずに顎を床にぶつけて唇を切ってしまったり、ひざをあちこちにぶつけたりと怪我も多い。けれど歩けるのが嬉しくて、にこにこして歩いている。</p><p>大人は歩けることの嬉しさを普段感じるだろうか?散歩をして気分転換をする日はあれど、歩くたびににこにことすることはない。</p><p>子供が歩けるようになるのと同じように、新しいことをやってみるのは常に楽しい。やったことのないストレッチをしてみたり、いったことのないお店に行ってみたり、乗ったことのない車に乗ってみたり。その嬉しさの振幅は年々増えているだろうか?それとも減っているだろうか?</p><p>---</p><p>それが新しいものなのか、変わらないものなのかを感じるのもまた個に依存する。全く同じことをやっているようにみえても、全く同じ日はない。同じような機能を作っているように見えても、別のチームなら別の課題であり別の面白さがある。同じように歩いているように見えても、全く同じ散歩はない。</p><p>60年後に自分はものを新しいと思えているだろうかと思った一日だった。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-35069481755588960472023-01-31T22:18:00.003+09:002023-01-31T22:18:34.191+09:00東急本店の思い出渋谷の東急百貨店本店が今日閉店した。仕事終わりについ足を伸ばし、最終日の店内を見てきた。普段はがらんと空いているのに、今日はまるでこの百貨店が今日オープンしたてなのかと思えるほどにお客さんでいっぱいだった。<div><br /></div><div>---<br /><div><br /></div><div>自分が上京してからというもの、渋谷に行くことが多かった。特に丸善ジュンク堂ができたからは、暇があれば本を探しに足を運んでいた。勤めはじめて渋谷が拠点になってからというもの、もっとも通った店である。</div><div><br /></div><div>東急本店というのは不思議な場所だ。賑やかな渋谷とは違う、静かな店である。混んでいるのを見たことがない。いけば7階の丸善ジュンク堂で本を物色し、8階のDEMIでハンバーグを食べたり、永坂更科で蕎麦を食べたりした。8階はBunkamuraとエスカレーターでつながっており、お洒落をしたお姉様方や連れの子どもたち、または品のよい年配の方々がよく歩いていた。</div><div><br /></div><div>丸善ジュンク堂ではよく本を買った。うちにある本のほとんどはそこで買った本である。ハヤカワepiを右から左へ買い漁り、文庫版の古典を読み漁り、ウェブやデータ関連の技術書をめくり、目ぼしい組織運営の書籍があれば手にとってよさそうならひとまず買っていった。いまも机の脇には10冊ほどの積読本がつまれており、これらもすべてここで買ったものだ。ここ2,3年はオフィスに行く機会も前より減ったので、渋谷にいく機会があれば昼休みにここに立ち寄り、そのときどき仕事での考え事に壁打ちしてくれる本を選んでいた。電子書籍も使うが、僕が物理本や本屋が好きなのはこの店の影響がとても大きい。</div><div><br /></div><div>ここの本屋はとにかく古典がたくさんおいてあるのが良い。もちろん話題の書もあるが、むしろ古典をちゃんと棚に並べてくれており、かつ平置きされている本もまたよく練られている。同じ著書の別の出版社の本があれば、それもまた別の区画にまとめて時期ごとに並べられており、趣向の変化を感じることもよくあった。</div><div><br /></div><div>---</div><div><br /></div><div>ここ最近は家族でいくこともふえた。渋谷にあって、車で行きやすく、ベビーカーを押しやすい店というのはここくらいしかない。</div><div><br /></div><div>屋上でアネモネの苗やチューリップの球根を買ったり、6階のファミリアでベビー服をのぞきつつ手が届かないような値段のお皿を眺める。年末にいけば、正月にしかつかわないであろう重箱が売っていたりして面白い。ベビーコーナーもあり、授乳室にもよくお世話になった。地下では一保堂のほうじ茶をよく買っていた。伊藤園の茶寮でも甘味を食べつつ休むこともあった。来るたびに魚力は必ずチェックして、値ごろなものがないかみていた。ぶり、マグロ、いかの刺し身などをあまり高くないものを探した。明治屋でタカキベーカリーのパンと、なにか珍しい調味料があれば買ってみていた。出店でパエリアやたこ焼きを買うこともあった。焼き鳥もたまに買った。さあ帰るかと思ったら銀座若菜でなにかしら漬物を1つお買い上げする、というのが決まりのパターンだった。新館よりではなく本館側に車を停めるとここの前を通るのである。</div><div><br /></div><div>何をするにも静かで、盛り上がりとは対局にある店だった。なぜ続いているんだろう、やはり松濤の常連客がたくさん買っているからじゃないかねえなんて話をしながら、自分たち家族もすっかりファンになっていた。最初大学のころに本屋目当てに訪れてから、まさかこんなに足繁く通う場所になるとはなあと思う。</div><div><br /></div><div>---</div><div><br /></div><div>建て替えられ、新しいビルになるとガラスばりの、おおきなビルになる。きっと便利になるし、時流にあったテイストになるのだろうなあと予想している。でも少し、この東急本店の残す、昭和っぽい雰囲気がなくなるのはやはり寂しいなあと思うのが本心である。古びているし、明るくもないし、人も来ていないし、しかし落ち着いている。そういう場所はどんどん、人の集まる場所からはなくなっていくのだなあと、当たり前のことを思いながらやはり少し寂しいなあと思ってしまう。そういう魅力のあるお店だった。</div><div><br /></div><div>店員のみなさま、運営に携わられていたみなさま、大変お疲れ様でした。お世話になりました。</div></div>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-56191386828980702032023-01-30T22:05:00.002+09:002023-01-30T22:05:30.755+09:00Mac miniを買った<p>Mac miniを買った。リビング用である。</p><p>仕事は自室でしている。自室には仕事用のMacBook Proと、プライベート用のWindows PCがある。最近は息子がリビングにいるので、リビングにいる時間が長い。またテレビにつなぎながら家族であれこれみるにはPCがあると勝手がよい。</p><p>「あの店どんな雰囲気だろうねー」とか「こういう棚ほしいよねー」と話しながら、画像を見せられると話もしやすい。</p><p>自分がはじめてさわったPCは自宅にあったWindows 95だった。その前でいうとワープロがうちにあり、それでタイピングして遊んだり、ソリティアをして遊んだりしていた。なんという名前のマシンだったのかは覚えていないけれど、その時からタイピングするのは好きだった。もともとは父のマシンだったはずだが、自分があれこれ遊んでいるうちに家族みなで触るようになった。一度フロッピーディスクを出来心でフォーマットしてしまったことがあり(「このフォーマットってなんだろう・・?」と押してみたのであった)、住所録を消すという事件を起こしたりした。</p><p>最近買ったMac miniも、いずれは息子のおもちゃになるのかなーと思っている。リビングなり、見えるところで使えるし、ちょうどよいのではなかろうか。Mac miniははじめて買ったのだけど、小さいし、手頃な価格だし、端子もあれこれあって便利である。</p><p>タブレッドやスマホも便利なのだけど、やはりなにかしら作るとなるとパソコンを使えるとなにかと楽だ。自分は文字を打つのが明らかにキーボードがあったほうが楽なので、すぐにパソコンを開いてしまう。いずれタイピングをするのはごく少数の人になってしまうのかもしれないが、まだしばらくはキーボードは残るのではないか・・と思う。まあでも個人のブログなんかは音声で入力したほうが早そうである。</p><p>自分がインターネットに触れたときのように、同じように喜びを感じるのだろうかと想像している。もしそうなれば嬉しい。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-7838201514892292612023-01-28T22:09:00.002+09:002023-01-28T22:09:20.432+09:00エレベーター<p>ベビーカーを押して移動するようになると、エレベーターによく乗るようになった。</p><p>休みの日はもっぱら買い物やらご飯やらで外にでる。駅の近くのスポットにいくにはやはり電車が楽だ。二子玉川や、都心のほうにいくときはたいてい電車である。</p><p>一人で動く分には何も気にすることはない。階段をえいやとくだり、電車に飛び込むようにのっても問題はない。しかしベビーカーを押しているとなるとまったく別世界である。まずエレベーターの場所を把握する。並んでいれば待つ。もう一度改札からホーム行きのエレベーターに乗る。またそこでも待つ。電車も車両によってベビーカースペースがあることもあれば、表示があってもあくまで優先席しかなかったりする。「この場合はどうする」の分岐がとても多い。</p><p>また、時間帯にもよって混み具合も変わる。平日の朝と夕方は通勤で混み、休日の昼過ぎもやや混む。平日朝は都心方向の場合は混むが、逆はそうでもない。そういう具合に方向と時間帯の組み合わせで混み具合が変わる。また休日は比較的後方車両が空いている。</p><p>そこまで把握してもなお、時間どおりには動けない。まあそういうものだと思うのがよさそうである。はじめておりる駅の場合はなおさらで、そもそもエレベーターの場所を調べることからはじまる。</p><p>ただどの駅に行っても、ちゃんとエレベーターがあるのはありがたい。そしてどの駅にいっても、足腰が不自由だったり、わたしたち同様にベビーカーを押している方々がいる。「ああ、お互いさまですね」といった具合にドアをあけてくれる。そういうちょっとした優しさがありがたい。</p><p>「あーここでもうひとり乗ったらきつそうかな」と思えば、ひとりは階段で、ひとりはベビーカーとともにエレベーターへ、という具合の調整もされる。「ちょっと俺歩いていくわ」という声掛けがあちらこちらでされる。なれたものである。ある種のプロトコルともいえるかもしれない。</p><p>そういうやりとりも日常になってきたけれど、一年前はまったくそんなやりとりがあるとは気づきもしなかったものである。見ているようで、見ていないものがたくさんある。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-36319635971913287812023-01-21T17:25:00.001+09:002023-01-21T17:25:15.897+09:00「禅と日本文化」を読んだ<p>最近はよく風呂に入るときに本を読んでいる。長くても30分ほど。この本はそこで読み、1ヶ月ほどかかってしまった。</p><p>タイトルのとおり、禅の観点から日本文化について語られている本である。書店の戸棚にあるのをみて、なんとなく惹かれて手にとってみたのがきっかけである。</p><p>日本における他の宗教に関しては触れられている部分は少ない。しかし、自然をどう感じるか、武芸、茶に関しての考察については専門外の自分でも十分に楽しめる内容だった。そもそももとが洋書で、出版されたのが1950年代。戦後、英語圏から日本の文化を考察する入り口として、この本があったことの影響は大きいだろうと感じた。「菊と刀」よりもより具体的であり、かつ欧州の詩や文学との比較も豊富だし、より日本文化と禅についてミステリアスな印象を与えたのだろうなあ・・と想像しながら読むと楽しい書籍だった。</p><p><br /></p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-88527177283085743892022-12-28T19:33:00.001+09:002022-12-28T19:33:16.420+09:00感謝の一年<p>今年も早めに仕事納めをして、まったりと家族で過ごしている。</p><p>---</p><p>今年はどんな年だったと聞かれれば、多くの人に感謝をする年であった。事業においても役割が変わり、より多くのエンジニアのみならず、多くの部署の多くの役割をもった人たちと会話をする時間が増えた。これまで組織として出力していたものが、多くの人たちによって支えられていたのだということに改めて気づく機会でもあったと同時に、経営にかかわるなかでレバレッジを効かせるポイントがいくつもあることを知る機会ともなった。</p><p>広報活動、あるいは採用にかかわる時間が増える中で、より多くの社外の方々とも関わる機会が増えた。本当に多くの時間を皆さんにいただき、忙しい中会話する時間をつくっていただいた。各種の場で話す時間をもっていただいた皆さんに改めて感謝したい。面接、登壇、面談、インタビュー、あるいはちょっとした雑談のなかで、会話のなかで自らへの期待や環境について知る場をいただいた。今年の前半はCTOを引き継いでどうしていくか、という手探りも多かったが、聴き、話す機会によって徐々に考えが言語化されていき、とりわけこの半年は確信をもってお伝えすることができるようになってきた。社内にあるものを社外に発信することの面白さと、中にある面白さを言語化することの難しさを同時に感じ、如何にして想いをのせて伝えるかに苦心した一年でもあった。</p><p>伝える時間が増えたように振り返ったが、これまでも多くのチームメンバーや同僚と話をし、社外の方々とも話をする場はあった。それが増えたように感じるのは、いままでよりもコンテキストを共有しない場で短い時間で的確に伝える要件が増えたからだろう。いままでは一言で済んだものが、三言必要になる場面がある。これを見分け、かつ面白く伝えるというのはなかなかに判断力のいる仕事だった。そういう点で伝える仕事のプロフェッショナリズムというのはあるのだろうなと感じる場面が多かった。うまくやれたという肌感はあるが、一方でもっとうまくやる方法も数々見つかり、あとはどう投資対効果を高めていくかという構造にできたのは収穫であった。</p><p>---</p><p>技術的な挑戦という意味でいうとこれまででもっともない年だった。多くの人の挑戦を聴き、羨ましく思い、素晴らしいなと称賛し、そしてなおやや寂しさを感じる時間も多かった。はたまたどうすればこれを両立できるかなどと考えるのだが、組織経済を学ぶ時間を費やすとなるとどちらもとるには難しかった。</p><p>一方で組織がどう動き、どう効用を設計し、何を制約とするかについて考える時間は非常に長かった。市場に開いてもこれは同様であり、どういう変数がありうるかを列挙し、どこを変えることが自分たちにとって有利になるかを考えるというのはとても面白い課題であった。比較的これはソフトウェアエンジニアリングに近い。問題の構造を見い出せば、あとはどのタイミングでどう判断すべきかの問題に落とし込める。一方、考え過ぎると環境が変わってしまい、取りうるべき手も変わっていく。プロダクトにおいても同様のことが起きうるが、経営においてもまた同様である。</p><p>すべてがうまくいくわけではないが、こうした思考回路を組織的に普及させるというのは来年の課題である。</p><p>---</p><p>他方、そうして経営に関する組織経済にまつわることを経済的なモデルで考えれば考えるほど、人の想い、感情、やりたいという気持ちの尊さを感じる一年でもあった。</p><p>何かを動かすとき、そこに論理的な正しさだけならシンプルである。が、何かをやりたい、なぜやりたいかわからないがやりたいと感じるとき、そこに熱意や感情がある。もちろんここに報酬があったり、経済的なメリットが将来ある可能性はあるが、それでは説明できないやりたい気持ちの大きさというのは、いつだって魅力的である。人的資本の観点から捉えれば、これは投資額によって大きくなるものでもあるかもしれない。内発的動機づけといえばたしかにそうである。しかし一語で片付けていいほどその感情の起こす創造性というのは小さいものではないように思う。何より自分はそうした個人の創造性に大きく惹かれており、それこそがテクノロジーの組織に携わる魅力であると考えている。</p><p>もともと自分がソフトウェアエンジニアリングをやったり、音楽をやっているのは、自分がそれ自体を好きなのと同時に、同じように携わるものすごい人たちを近いところで見れるからである。なんでこんな曲が作れるんだろうという想像もつかない作曲家の作品を初演させてもらったり、なんでこんなソフトウェアをつくろうとしたんだろうと想像もつかないことをやる人たちと同じコードを書いたり。そういうすごさや創造性に隣接するというのがなにより好きである。これは今年に始まったわけではなく、ずっと最初からそうだ。</p><p>そういう原点を思い出すとき、経営についても同様にそれは源泉である。ただただそこにインセンティブしかないのならそうはならない。もっともっと、なぜそれをつくるかということには、深い、事象は説明はできるが理由は説明できない、そういった源泉があり、これが何かを生み出す力であるとこの一年を通じてもなお実感を深めている。</p><p>そういう湧き出るものをもつ人たちと働く時間を、もっともっとたくさんつくりたいと思っている。</p><p>---</p><p>今年は子供も生まれ、育休をとった。何をしてもかわいく、面倒をみるという日本語が示すよりもよっぽどポジティブに、喜んで面倒をみている。</p><p>なにか言葉のようなものを話してみたり、気がつけばぺりぺりとヘリをかっちゃいていたり、ころころところがってみたり。窓の外をぼーっと見ていると思えばぺろぺろとなめ、紙がそこにあればとりあえず破ってかじる。おすわりができるようになったかと思えば前にころがって頭をぶつけたり、眠そうだと抱っこしてみればやはり床に座りたいと泣いてみたりする。</p><p>昨日はこうすればうまく寝てくれたのになあ、ということが明日には通じなかったりする。どういう早さで彼のなかで環境が変化しているのだろうなあと思うと、大人とは全く違うスピードであることは想像に難くない。ころころころころとかわっていく。昨日はかぼちゃを食べたのに今日は全然食べなかったりする。そう思えばおかゆはすごく食べるようになり、でもブロッコリーは全然やっぱり食べなかったりする。決まったところもあるようで、ないようで、大変面白い。</p><p>---</p><p>人一人でもこれだけかわるのだから、集合体である社会や環境も変わるのであるといい意味で諦めにもなっている。それは変わるでしょう、という楽観的な部分もある。でもどこかで目的と制約を共有していて、大きくはある一定の方向に向かっていくのも面白いところである。</p><p>ぐるぐるぐるぐると、社会の中で回りながらも、こうして毎日を過ごせていることに感謝を深めた一年だった。</p><p>---</p><p>みなさま良いお年をお迎えください。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-66758188585321094022022-10-15T16:39:00.004+09:002022-10-15T16:39:46.459+09:00良し悪しより快不快が先にくる毎日見ているとどんどん表情や感情が生まれてくるということに気付く。<div><br /></div><div>服が濡れたり、暑かったり、体に触れるものは心地よさがすぐにわかる。次第に周りに誰もいないとわーっと呼んでみたりする。親が近くにいると安心し、ほっとしたような表情をしているようにみえる。いまのうちにとちょっとPCのほうに向かったりするとまたわーとかきゅうとかいったように声をあげたりする。</div><div><br /></div><div>ものを触るのも楽しくなったようで、いろんなものを触っては口にいれている。指を口にいれるのが流行っているようで、手の全部の指をいれるのに挑戦しているようだ。あきらかにいれすぎである。</div><div><br /></div><div>音がなるものはたのしく、色がついているものが好みだ。寝返りするようになり、自分の行きたい方にころんと近づくようになった。最初はあおむけからうつぶせになると戻れない亀のようだったのが、気づけばうつぶせからも自分で戻れるようになった。ころんころんと回っていつのまにかマットからはみ出ている。それが楽しいようだ。</div><div><br /></div><div>ただまだなにがいいとか、悪いとかといったことはとても曖昧で、そういう概念がないようだ。足をばたばたして、にこっと笑いながらかまってほしそうなときもあれば、なんなのかわからないがひたすらふぇーっと泣いているときもある。だが何がよくて、何が悪いのか、こちらも、そして当の本人もわかっていない。でも煩わしいとか不快だというわけでもない、というときがある。じゃあともすればこの眼の前でふぇーっといっているのは一体どういう理由なんだというと大人の理由ではなかなか説明がつかない。</div><div><br /></div><div>こっちがごはんを食べていると、よだれを垂らしながら指をくわえてじーっとみていたりする。それもまた本人は理由はわかっていない。食べるということは教えられなくてもそうするように、どこから教えられたのでもなく知っている、あるいはそうであるというのがわかっていることが人にはあるのだなあと思う。</div>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-82515162794456641162022-05-20T22:28:00.004+09:002022-05-20T22:28:26.049+09:00育休を終えて<p>1ヶ月ほど育児休業、いわゆる育休をとった。休暇、といっても家事をやったりだっこしたりというのでほとんどPCに落ち着いて向かう間もなく、こうして文を書くこともなかなかできず・・。せっかくなので書いておく。</p><p>自分も子供が産まれたら休みはとろうと前々から考えていた。育児休業制度の活用や手続きにあたっては、弊社の労務メンバーに全面的にサポートしてもらった。ありがたい。なかなか制度を読み解いたり理解をするのもひと手間かかったのでとても助かった。結果としては1ヶ月程度休むことにした。</p><p>産後、妻は産褥期に入る。出産後、体がもとの状態に戻るまでの期間である。妊娠中からつわりもあれば体もそもそも重くなり動きづらいというのもあるため、出産前も家事全般をやるようにしていた。しかしながら出産後のほうが体を動かすのが全般的に負荷が高そうな印象を受けた。産前はそれこそ散歩にいくなどもできる状態だが、産後はそもそも立つことすらつらいのである。その状態にいてなお、2,3時間ごとに授乳しなくてはならない。もちろんミルクで育てることもできるが、どちらにせよ夜でも日中でも関係なく起きる必要がある。</p><p>自分はミルクを除き食事、つまり授乳をこなすことができない。なのでまず妻の体調・コンディションを戻るまでのサポートに取り組むというのが夫婦 + 赤ん坊生活の始まりとしては妥当であると思う。ということで基本的に1ヶ月間ひたすら家事をしていた。妻には寝れるときには寝てもらい、とにかく横になっていてもらう。</p><p>---</p><p>1週間するとひとまずペースもできてくる。慣れて、これからどうしようね、明日はあれを試してみようかといった会話をして、試してみる。首も座っていないし、どこかに行くわけでもなく、ただただ子を眺める。ただただかわいい。うんちをしている。泣く。おむつを変える。それもかわいい。そういうことをしているうちに一日が終わる。</p><p>2週間するとなんで泣いているのかがわかったような気がしてくる。これはおむつかな、これはお腹が空いたのかな。あるいは暑いのかな。そういうことを話していく。課題の切り分けである。ああこれはおむつだな、と思って変えてみようとしたら全然していなかったりする。難しい。しゃべってくれ。どっちなんだ。ああかわいい。と思っていたら泣き止む。なぜなんだ。わからん・・ということを繰り返す。一日が終わる。</p><p>3週間するとまあわからないものはわからないよね、というある種の諦めもついてくる。悟りである。親は3週間もあれば悟る。しかし泣く。しゃべらない。まあしかしそういうものである。ちょっと抱き方を変えてみたり、静かにしてみたり、つんつんしてみたりする。かわいい。泣きながらおならをしたりする。げっぷさせたいのにおならをしたりする。なぜなのか。</p><p>---</p><p>大人は大人の会話がある。僕らが話していると、こっちをみている。子もなにかをしゃべろうとしているのじゃないかと考えてみる。夫婦でやっと落ち着いてごはんを食べる。こっちをみている。じっと眺めている。かわいい。食べたいのかもしれない。いちご食べるか、と聞いてみる。ちょっといちごを目で追った気がしてくる。おおそうか、目で追うというのは進化なのだ。成長なのだ。すごいスピードで成長している。ぐんぐんと大きくなっていく。気を休めるまもなく、成長していく。</p><p>妻も自分も、大人と会話する時間が一日のなかでとても貴重である。あれだねこれだねというのでもなく、他愛もない話をする。</p><p>自分が休んだのはたかだか1ヶ月である。しかし1ヶ月でぐんぐんと大きくなる。目がくりくりしてきて、体も重くなって、だっこしているとこっちを引っ掻いてきたりする。かわいい。昨日とも変わっている。毎日変わっていく。人というのはこんなに早く変わっていくものなのかと今日も思う。</p><p>---</p><p>1ヶ月、家事をして、子を抱っこしながら本を読んでいたらあっという間に過ぎてしまった。いまだかつてこんなにパソコンを触れなかった1ヶ月はない。今こうして仕事に戻ってみると、こんなに大人と話をしていたのかと気づく。話せることの奇跡。言葉のあることの不思議。意思疎通の便利さ。ああでもすぐに隣の部屋にもどって抱っこをしたい。いやいや、仕事に集中しよう。大人の世界は素晴らしいし、子供の世界は可能性に満ちている。2100年をこの子はどう過ごしているのだろうか。</p><p>育休を終えて自分の中で変わったことは、時間の感覚である。COVID-19で人と会う時間がぐっと減ってしまった。仕事も家で。でも子はそれも関係なく、あっという間に時が育てていく。時間が濃い。仕事をして、人に会う。言葉を交わせることがこんなにも楽しいことだったなんてと驚く。この会話をいままでどれくらい大切にできていたかなと思い返す。みんなそこに時間を使ってくれていたのだ。自分はどんな未来をつくっているか?</p><p>そして今はだらだらとパソコンでこうして文を書くことの喜びを噛み締めている。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-78873098261107415882022-05-04T21:39:00.004+09:002022-05-04T21:40:03.295+09:002022年に読んだ本<p>2022年に読んだ本をまとめておく。随時更新。</p><p><a href="https://blog.kentasuzuki.net/2021/01/2021.html">2021年</a><br /><a href="https://blog.kentasuzuki.net/2020/01/2020.html">2020年</a><br /><a href="https://blog.kentasuzuki.net/2019/01/2019_5.html">2019年</a><br /><a href="https://blog.kentasuzuki.net/2018/01/2018.html">2018年</a><br /><a href="https://blog.kentasuzuki.net/2018/01/2017.html">2017年</a></p><p>最終更新: 2022/05/04</p><div><ul style="text-align: left;"><li>入門経済思想史 世俗の思想家たち (ちくま学芸文庫) 文庫 – 2001/12/1 ロバート・L. ハイルブローナー (著), & 6 その他</li><li>無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体 単行本 – 2020/1/17 Jonathan Haskel (原著), & 4 その他</li><li>監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い 単行本 – 2021/6/25 ショシャナ・ズボフ (著), 野中 香方子 (翻訳)</li><li>われ広告の鬼とならん―電通を世界企業にした男・吉田秀雄の生涯 単行本 – 2004/2/1舟越 健之輔 (著)</li><li>組織デザイン (日経文庫) 新書 – 2004/6/1 沼上 幹 (著)</li><li>感情とはそもそも何なのか:現代科学で読み解く感情のしくみと障害 単行本 – 2018/9/20 乾 敏郎 (著)</li><li>非クリエイターのためのクリエイティブ課題解決術 Kindle版 齋藤 太郎 (著) 形式: Kindle版</li></ul></div>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-40230384204745850682022-03-24T17:22:00.002+09:002022-03-24T17:22:37.205+09:00ソフトウェア開発にどのくらいの時間をかけられているか?<p>「無形資産が経済を支配する: 資本のない資本主義の正体」を読んでいる。その中でGDPの計算のなかでのソフトウェア資産の扱いについての話題がある。</p><p>たとえばソフトウェアエンジニアリング職の賃金及びコスト(たとえばIDEの利用費だとか開発機の費用だとかをまとめたもの)をすべて足し合わせるとソフトウェア投資になるのか?というとそうではない。いわゆるICなら9割程度がソフトウェア資産を生み出す活動をしているが、エンジニアリングマネージャーになると5%程度しかソフトウェアそれ自体を生み出す活動をしていない、といったような話がある。</p><p>日々の仕事の中で、面接・評価・組織づくり・採用広報といったような直接的なソフトウェア生産活動以外の時間というのはどの程度あるものだろうか?自分はこの3ヶ月採用に8割以上の時間をつかっていた。たとえば事業を直接みているエンジニアリングマネージャーならどの程度の比率が適切だろうか?ICならどうか?といったような疑問が浮かんでくる。</p><p>ソフトウェアエンジニアリング組織全体がつくるアウトカムで見るならば、個別の比率云々よりも合計値を高めるべきである。なので例えばICの開発時間比率を高めるための投資というのが成り立つ。これがエンジニアリングマネージャーを雇う動機になりうる。あるいはプロダクト方針を策定するプロセスを効果的かつ効率的にやりたいならプロダクトマネージャーを立てる。たとえば類似プロダクト調査を始めとする外部環境の調査や、機能に対する仮説を立てることは打率向上につながりやすい。ソフトウェアの開発にかける時間の最大化と、効果の最大化をやるというのがもっとも理想的である。</p><p>定量化すると落ちてしまう情報もある。そして定量化は避けられがちである。しかしながら組織全体でみるとこれは確実に健全性を図る指標になるなと、投資の視点で思うのであった。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-22159234839105423622022-03-22T23:13:00.000+09:002022-03-22T23:13:05.991+09:00「超一流になるのは才能か努力か?」を再読した<p>前にも小賀さんがなにかで紹介されていたのを見て読んでいたのだけど、先週の技育祭2022春の登壇に向けて再読した。改めてメモしたことをまとめておく。</p><p>先週の発表資料はこちらからどうぞ。学生エンジニアに向けて。<br /><a href="https://speakerdeck.com/carta_engineering/geek-sai-2022-spring">https://speakerdeck.com/carta_engineering/geek-sai-2022-spring</a></p><p>本書のなかでは絶対音感をトレーニングによって身につけることを例示しつつ、コンフォートゾーンを抜け出す「限界的練習」の概念、苦しい練習を続けるテクニックなどについてストーリー仕立てで紹介されていく。</p><p>なによりこの本はコンフォートゾーンを抜け出す方法についてわかりやすく説明してくれているのがよい。「目的のある練習」をやろう、というのが趣旨である。</p><p>目的のある練習のための4つのポイントは端的である。</p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>はっきりと定義された具体的目標がある</li><li>集中して行う</li><li>フィードバックが不可欠</li><li>コンフォートゾーンから飛び出すことが必要</li></ul><div>自分自身の経験からもこれはわかりやすい。クラシックギターの練習を大学4年間続けていたが、基礎的なスケールのスピード・譜面の読み方・フォームを覚えるとあとは自由に曲を弾いて楽しむといった具合になりがちである。その後尾尻先生に習い始めてからはフォームを直し、自分の耳で自分の演奏を聴き直し(あるいはこの音が聴けてないね、というフィードバックをもらい)、徐々に演奏の幅も広がっていった。アンサンブルに参加すると他の奏者や指揮者の方々が自分の耳を広げてくれた。短時間に時間を共有して、ある演奏会や達成目標に向けて練習していくと、やはり能力は順調に伸びていく。そういったことを実感した。</div><div><br /></div><div>プログラミングを始め、自分にかけている負荷というものについては甘くなりやすい。どうしても自分ができる幅の問題を問いてしまう。「自らのコンフォートゾーンから飛び出すというのは、それまでにできなかったことに挑戦するという意味だ。」とのとおり、コンフォートゾーンから自分はいま飛び出しているのか?というのは前にこの本を読んだときから定点観測していることだ。</div><div><br /></div><div>---</div><div><br /></div><div>しかしそれにしても目隠しチェスチャンピオンの事例などは凄まじい。どうしてここまで駒のパターンを覚えられるのか。それは「心的イメージ」によるものだ、と書かれている。つまり、ランダムに配置した駒を覚えられるというわけではなく、意味ある配置をとらえる力が強いのである。</div><div><br /></div><div>心的イメージについてはこう記述されている。</div><div><br /></div><blockquote><div>心的イメージとは、脳が今考えているモノ、概念、一連の情報など具体的あるいは抽象的な対象に対応する心的構造のことである。</div></blockquote><div><br /></div><div>たとえば言葉も心的イメージである。「犬」の例が紹介されており、「犬」といわれれば一瞬で自分のあたまのなかにかわいいワンちゃん、あるいは番犬になりそうなたくましくてかっこいい犬・・・などが思い浮かぶ。限界的練習とは、その活動に役立つ心的イメージをつくりあげることにほかならない、という。</div><div><br /></div><div>本を通じて語られていることは、練習しなければ能力は身につかない、ということだ。とにかく集中して練習をしている。そして「意志の力が強い人」など存在しない、と著者は主張しており(少なくともそれについて科学的に正しいと証明されていないとのこと)、ただただ「意欲を生み出す要因はなにか」と向き合うよう促している。うまくなって能力が上がること自体が意欲の根源になる人、自分は成功すると信じる気持ち・・人によって異なるが、なにかが自分の意欲を高めている。これと向き合うことで、限界的練習を続けることができる。</div><p></p><p>---</p><p>ちなみに似た領域に「RANGE」という本がある。こちらでは英才教育と「幅」を広げることについて比較した話が展開されていく。どうしても超一流というと英才教育のイメージが強くなりがちだが、また違う観点から触れたい方はこちらもおすすめ。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-76331069070293688312022-03-21T17:08:00.002+09:002022-03-21T17:08:22.522+09:00「多様性の科学」を読んだ<p>「失敗の科学」の著者であるマシュー・サイドの本である。昨年の夏に出た本だ。</p><p>タイトルそのままのとおり、画一的で集落する組織の例をあげていきながら、どのように失敗していったのか、ということが紹介されていく。CIAが911を予測できなかった話、エベレスト登山隊で支配的ヒエラルキーによりチームが機能しなかった話など、悲劇的な事例が紹介されていく。</p><p>個人的にプラクティスとして面白いなと感じたのは「影の理事会」パターン。会社のボードとは別に、裏の理事会にアドバイスを乞う。世代も人種も違うメンバーから会社の判断に関するアドバイスをもらうことで、本物の理事会の危機感を醸成する。事例としてはグッチのデジタル化が示されていた。</p><p>---</p><p>主張としては一貫して「多様性がないとどうなるか」という話である。それによってどんな失敗が起こるのか、ということを紹介してくれている。</p><p>組織において多様性を取り入れるべきかいなか、という点については次が端的な問いになりうるだろう。</p><p>"『問題は個々人の知性の高さではない。肝心なのは、集団の中で人々が自由人間意見を交換できるか、互いの反論を受け入れられるか、他者から学ぶことができるか、協力し合えるか、第三者の意見を聞き入れられるか、失敗や間違いを許容できるかだ。イノベーションはたった1人の天才が起こすわけではない。人々が自由につながり合える広範なネットワークが不可欠』"</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-54928513380854773582022-02-28T22:41:00.000+09:002022-02-28T22:41:26.999+09:00社会への責任<p>あるときプログラマになろうと志した。自分が大学生のときだった。どんな仕事をすることも、何もわかっていなかった。プログラムを書くことで、少しだけ動くものをつくって、手触りのある形でなにかを提供できるようになるかもしれない。そういう気持ちが少しずつ大きくなり、プログラマを職業として選んだ。</p><p>その後、チームでプログラムを書き、長くソフトウェアをメンテナンスし、事業としてプロダクトをつくることを学んだ。多くの人と会い、技術や社会や経済について語り、1つ1つをつくるプロダクトに込めた。多くの価値観が混ざって、議論して、考えて、ものに変えてきた。</p><p>---</p><p>いつからか、自分は社会をつくっていた。社会にはいって、会社のなかでプログラムを書いて、給料をもらって、なにかをつくるのを仕事にしていた。社会はもとから用意されているものだった。会社で働ければ給料が払われ、マネージャーがいて、経営者がいた。勉強会に行けばたくさんのエンジニアの人たちと会う機会があって、他の会社のやっていることがIRみれて、本を読んで知ることができた。それらはみんな、もとから用意されていたものだった。あるときまでは。</p><p>あるときから変わった。面接官をしていると学生と話す。すぐに社会のマスクをかぶって、社会の先輩として学生と話す。マスクをうまくかぶれていても、あるいはちょっとうまくかぶっていなくても、学生は社会と話す。話していると感じる。それがうまくなくても、話を足し合わせて社会像を作り上げていく。ちょっと前々で一緒に遊んでいた人たちが社会に出ていく。そして社会の香りをもって、話をしてくれる。そういう場で少しずつ社会のなんたるかを嗅いでいく。</p><p>---</p><p>自分のしていることは、あるときから社会だった。ソフトウェアを信じてみたり、オープンソースソフトウェアの素晴らしさを感じてみたり、広告について話すとき、それは社会のメッセージになっていた。巨大な社会に、雨粒ほどの大きさもないメッセージを落としていた。自覚はなくてもそれはメッセージになっていた。どれだけ考え抜いてもすべてのことを完璧に考えることはできない。けれど毎日なにかを感じ取って、知って、考えて、1つ1つ伝えることを磨いていく。磨いていかなければ、社会はよくならない。</p><p>社会がよくなるも、よくならないも、自分たちそのもののあり方である。しかしながら、社会は大きすぎる。だから大きな流れを変えることはできないと思ってしまう。いま残念に思っていること、こうであってはならないがこれは社会のせいであると思っているようなこと、歯がゆいこと、それは他人のせいであるようで、自分たちのせいである。誰かに何かを与えたいと思うなら、社会のマスクをかぶって、わたしたちはそれをやらないといけない。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-29643932669532895142022-02-24T22:45:00.003+09:002022-02-24T22:45:21.820+09:00仕事の引き算<p>いつからか、どうしても仕事というのはできればできるだけやってしまう。これは癖だ。あ~もうちょっと手を抜きたいな~と思っても全力でやってしまう。「これぜひお願いしたいなあ」なんていわれるとどうしてもやってしまう。</p><p>このままではいけないなあと思ってもいるが、自分が仕事を頼む側なら快く引き受けてくれた人には感謝をするし、そのあとも一緒に仕事をしたくなる。とはいえ全部をうけているとどうにもこうにもまわらない。じゃあどうするか、と考えて最近やっているのが「そもそもこの役割は必要か?」というのを都度ある毎に考えている。もともとなにかソフトウェアエンジニアとして機能をつくるときに「そもそもこれ必要?」とよく考えていたので、これまた癖である。まあでもきっとおおよそ一緒であり、「なんとなく必要と思ったので・・」みたいなものが案外増えてしまう。</p><p>そして枝を刈り枝を刈り、すっきりとした木にしていく。あーさっぱり。なにやら残ったものは必要そうな仕事だぞ、ということでこれを全力でやっていく。</p><p>---</p><p>まあしかし、なんでこうも枝が増えていくのかなあと妄想する。妄想するのも仕事である。暇があると、いや暇がないときのほうが妄想が捗る。社会をまわしているのはこういう枝なんじゃないんだろうか。そのお手紙いる?そのペンの色いる?その音楽必要・・?なんていっているとなんて味気ないことだろう。たっぷりとした暇な時間が人生を彩るんじゃないか・・なんてことを巡り巡って考えている。</p><p>いや、違うんだ、自分も暇になって、時間を穏やかに過ごすためにそうやって枝刈りをしているんだよ・・と思いながら、なにかいろんなものを余白に詰め込んでしまっていく。</p><p>余白をつくるための枝刈りが、余白を埋めていく。</p><p>---</p><p>ウクライナ危機のニュースが聞こえてくる。自分は自宅。どうも現実感がない。テレビの向こうで軍事行動が流されている。Twitterがざわつく。気になって仕方がない。</p><p>でも次の瞬間には自分の目の前の仕事、目の前の人達に意識を向けている。遠いものは意識の外へ、枝になってしまう。枝を見ない。枝を刈る。いや・・それでいいんだっけ?と思う波がやってくる。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-78793507638788740622022-01-01T16:40:00.000+09:002022-01-01T16:40:04.699+09:00変化の年<p>あけましておめでとうございます。</p><p>---</p><p>今年は変化の年となりました。COVID-19の影響を受けた生活が3年目となり、すっかり社会との関わり方が変わった生活も日常となりました。自分自身も担当する仕事が変わり、この1年は変化の年、自分から変わらなければならない年です。</p><p>この1年の主題は学習棄却と委譲です。これまで得意であること、これまで長い時間取り組んできたことを元にしつつも、1つ2つ抽象化し、考え方を磨き、蒸留すること。前提を鵜呑みにせず、なぜをもっと考え、自らの言葉で語ること。1つ1つの事象に対する解像度を上げて、咀嚼し、考えをつくること。これまでと同じであってはうまく行かないことがすでに見通せており、自らを変えることが必要だというのが昨年末にかけて見えてきました。</p><p>委譲もまた変わるなかで必要なものです。ただ任せ、放り投げて結果だけを受け取るのではなく。環境をつくり、つなげ、問題を一緒に考え、渡す。フィードバックを続けて、任せていく。今までこれが大切だと思っていても片手間でやってしまっていた委譲という行為について、精度をあげて続ける必要がある。委譲のレベルをあげたいと考えています。何より人に対する委譲というのは、相手がいなければできないこと。特にこの1年は複数人でコトに向かうことの難しさと、そして楽しさを感じた年でもありました。委譲のレベルはコトに継続して向かうレベルの底上げでもあります。2,3年ではなく、10年の期間で委譲と向き合うこと。これが次のテーマだな、と思っています。</p><p>---</p><p>元旦は今年も東京で過ごしていて、2年ぶりに人の少ない正月の東京を見ています。東京で仕事をするとはどういうことなのか。そういうことをよく考えた1年でもありました。どうせなら、やらぬよりも、やってみよう。1日過ごすなら、せっかくなら前に進んでみよう。そういうスタンスは変えずに、今年一年も健康にやっていこうと思います。</p><p>本年もよろしくおねがいいたします。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-18057128748105465962021-11-23T17:27:00.000+09:002021-11-23T17:27:00.319+09:00人の矛盾<p>勇ましい人がある面で女々しかったり、狡猾に思えた人が律儀であったり、誰にも明るく振る舞う人が実は一人の静かな時間を愛していたりする。</p><p>人と話したり、話を聞いたりしているとこれまであった人たちと重ねて、ああこういう方なのかなと考えてしまいがちである。ある一面をみて、とても細かい人だなーと思った人が別の日にはとても大雑把に見えたりもする。</p><p>自分自身でもよく矛盾をしている。晴れた日には散歩をすべきだと日頃いっていても、実は出不精をこじらせて家でパソコンを触り続けていたりする。普段から元の場所にものを戻す癖があるのに、なぜか自分のパーカーだけはいつも違うところに置く。誰かに少し気を使って振る舞えたと思えば、その次には勝手なことをしてしまったりもする。同じ自分の中なのに、特に考えたわけでもなく、なにか通らないことをしてしまうことがある。</p><p>今日はモームの「月と六ペンス」という小説を読んだ。ストリックランドという架空の画家の話である。ストリックランドはイギリスの証券会社で働いていたが、40歳のある日突然仕事をやめて家を飛び出してしまう。それまで真面目そうに見えていた人間が、支離滅裂な会話をし、全く人に気を使わない人物像が徐々に描かれていく。会社員時代に交流のあった上流階級の人々と、絵かきになってから日銭を稼ぎながら関わっていく人々との対比が鮮やかにされている。絵に没頭し、それ以外のことに関心がない。現代では受け入れられないだろうなあという描写も多々あるけれど、人物がとにかくいきいきとしている。そして矛盾を抱えている。読んだあとから知ったがゴーギャンをモデルにかかれている本らしい。</p><p>---</p><p>誰かについて他のひとに話すとき、どうも「こういう人なのだ」と話してしまいがちである。のだけれども自分も含め、人というのは矛盾している。それを知っているのに、ちゃんと人となりを知り、ちゃんと人となりを話すというのは難しい。</p><p>案外、好奇心によって人がなぜそういうことをしているのかを見ている人のほうがすんなり受け入れられるものなのかもしれない。ストリックランドという人はそういう具合に描かれていた。このひとはなんでこういう考えに至ったのだろうなあということを考えるほうが面白い。それがぱっとみわかりづらいほど、実は味があるということもある。しかしながら日々の生活において、わかりづらいことは避けられ、プロトコルに従っていることをが安定をもたらす風合いがある。それが面白いか面白くないかはさておき、共通観念の上にいるのだという安心感はこういう好奇心をどこかに追いやってしまう。</p><p>COVID-19下の生活になってから、どうも自分と共通の価値観の人たちとしか混ざらなくなってしまっているという怖さが常にある。飲み会で興味のない話を聞かされる機会も減り、カンファレンスで知らない話を聞く機会も減った。日常の複雑さが減ると、無意識に同一な人たちとの時間を増える。快適だが、そういう生活では長い目でみるとどんどん違うものに対する好奇心が減っていってしまうのではないか。</p><p>そんなことを最近は思っているのでした。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-15110578558172336242021-07-19T22:23:00.000+09:002021-07-19T22:23:24.104+09:00腰を据えて取り組むこと<p>あちらこちらへ意識をそらし、いろいろなことに頭を巡らせ、明日自分の処遇がどうなるかを考えながら事に取り組む・・そういう環境の中で磨かれる力もある。</p>
<p>また、長く取り組むことを前提に、小さな波を気にせず、腰を据えて成果を出すために取り組む・・・そういった辛抱のなかで磨かれる力もある。</p>
<p>1つ1つの仕事は小さいことで、これを数年数十年に渡って続けなければならないこともある。自分は長く物事に取り組む方が好きで、これは案外困難なことらしい、というのが最近に色々な人と話す中でわかってきた。そして、好奇心を持った物事がたくさんあるというのと、何かについて長く好奇心を持ち続けるというのはまた別の強みなのではないか、と考えるようになった。ソフトウェアエンジニアたるもの、ソフトウェアのあらゆるものに好奇心をもって取り組むべきなのだ・・!と考えていた時期もあった。しかしすべての好奇心を燃やすというのはなかなか持続しない。しかし、少なくとも自分が興味を持ったいくつかものについて長く取り組むというのは、好奇心のスピードではなく、小さな変化に気を払って、ちょっと触って試して見続けることで可能になる。好きなことへの取り組み方は自由なのだと思う。</p>
<p>特にキャリアの初期というのは焦りもあるし、成果を出すことを急ぎがちである。自分も例にもれずそうだった。色んな人と自分を比較して、足りない部分を埋めるべく必死に本を読み漁り、いろんな分野に顔を出した。刺激的だし、常になにか成長していないと焦っていた。今も成長痛がほしいと思いながら頭を殴られるような本を求めている。けれど、いまの欲しさと当時の欲しさは違うように思う。生活を満たすために実力をつける、というのとは違い、自分が何に興味を持っているかをしっかりと感じ、その興味を持ったことにじっくりと取り組む。その面白さがようやくわかってきたのかもしれない。</p>
<p>腰を据えて取り組むというのは案外難しい。キャリアのこと、給与のこと、競争環境のこと、知人たちのこと、チームのこと、社外のこと・・、様々なことを気にしがちなのが人間である。自分の中にある好奇心をちゃんと感じて、何かに長く取り組むということは、将来の自分を変えてくれる。しかし、何かしら成果をあげて信頼された状態になければ焦りはあり、長く腰を据えて取り組む土壌というのは育ちづらいものだと思う。これはいくら周りのサポートや環境が整っていても、整いすぎるということはない。腰を据えるには自分のなかにある何かが質的に据えた状態にならなければ、そうはならない。最初は小さな成果であっても、自分がなにに取り組みたいと思っているかを捉え、取り組み始めるにはおそすぎることはない。</p>
<p>自分がそうであったように、今は誰かがそういう取り組みをしようとしているときに、ちゃんとそれに気づき、腰を据えられるようにサポートしてあげられるようになりたいと思うようになった。これは人によって変化が違う。しかし、長く一緒に仕事をしていると変化に気づく。そういうタイミングを見逃さず、変化を捉え、注力させられるようにすること。これが能力発揮の場を長くつくるということなのだろうなと、最近は考えている。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-27975018519457271792021-06-28T23:15:00.001+09:002021-06-28T23:15:19.202+09:001の時間で10をやる<p>ありがたいことに1つの事業領域に集中して取り組む時間をここ数年もらえている。デジタルマーケティングの領域においては外部環境の変化も毎年のようにあるけれど、変化を脅威とも機会とも受けながらプロダクトを改善しながら走り続けている。どこまでいってもプロダクトの改善というのは武器であり、顧客に価値を届け続けるために必要なことだというのは常に変わらない。</p>
<p>しかし最近、どうにもこうにも時間が足りなくなっている。これまでは打ち合わせやら考え事やらのあいた時間にがががっとAPIなり画面なりを作るという余白があったのだけど、かなり意識して3時間をおさえる、というようにしないと手を動かす時間がない。事業に関することでいうと、ざっくり次のことをやっている。</p>
<ul>
<li>採用</li>
<li>評価</li>
<li>組織</li>
<li>プロダクト</li>
</ul>
<p>これらは4つとも関連している。たとえばリサーチ。将来投じるべき技術領域だと考えられるものをキャッチアップし、実際にやってみる。技術じゃなくても情報やモノであることもある。とにかく調べて、それをプロダクトにフィードバックすることを考えている。投資したい技術領域についてはチームを作ったり、あるいはそれにそぐう人をいれてみたり、社内に広めたり、といったことをしていく。その流れにそって採用も進む。組織をなめらかに、かつ強化するために評価があり、これは制度としての設計というより事業としてどうつかっていくか、ということを日々変えていっている。</p>
<p>プロダクトにおける先見性があるものをできているか?というとわからない。ありがたいことに様々な媒体の方々からいろんな要望をいただき、デバイス、国、様々な文化慣習を読み取りながら進めていっている。広告 + インターネットの領域というのはとりわけ多くのお金と知見が飛び交う傾向があり、毎月のように新しい取り組みがでては消えていく。ただ、大きい螺旋を描きながら改善していくのもこの世界の動きであり、それが例えば今はデータとプライバシーに関して起きている。ITPに始まり、3rd party cookieの廃止、ATT、SkAdnetworkやPCM、Privacy SandboxにTCFにCMP。新しい水準、全く新しい仕組み、いままで当たり前だったものが当たり前じゃなくなる。こういうことがどんどん起きていく。</p>
<p>会社として当たり前にやっているように思われることも、先んじて手を打っていることとそうじゃないことでの区別がようやくつくようになってきた。ファーストペンギン、セカンドペンギンという言葉もあるように、だれかの様子をみてからすぐ動く人もいれば、誰よりもはやく施策をうって高速に試験して次の手をうつ人たちもいる。セカンドペンギンは賢いと思っていたが、世界はもっとも巨人であろう人たちがもっとも最初に飛び込んでいく、というように見える時がある。実際に巨大なファーストペンギンがいる場合もあるし、自分たちの見えていない動向もまたそこにあったりする。世界は同時多発的に動いている。日本の動向は世界の余波を都合よく受けていく傾向がある。</p>
<p>良し悪しではないのだが、やっぱり日本については強くこうする、という意図、というより意志が優先されていかない。難しいが個人の意識が低い問題について、あるいは各々が考えてこうした世界を作ろうというものよりも、なにか大きな流れに巻かれていき、真っ当だと思われさせられている、という側面を見ることが増えてしまった気がしている。ただ、やり始めると早い。そういうことを仕事でもよく感じるようになってきた。ただこれもうまくいえないのだが、セカンドペンギンならぬサードペンギンくらいの位置で安心感をもって動かしていく、というのが得意なのだな、自分も含めて、と思う時がある。</p>
<hr />
<p>などなどぐるぐると書いてみたが、ようするに考えを掘り進めて「何をすべきか?」を考えるというのはこのように時間が溶けていく。日々経営陣でも社内のことから社外のことまで幅広く話していると思っているのだが、一歩踏み出せば自分の頭で考えたようで、実はまったく考えていなかったな、ということが毎日のようにある。そういうことをしていると、これまで10の時間で満足にできていたことが5の時間でなんとか終わらせなければならなくなったり、あるいは1の時間で誰かにやってもらうための仕掛けが必要になっていく。</p>
<p>仕掛けをつくって時間を生み出せたら、その頃にはまた別のことをやりたくなっていてすでに動き始めている。そうこうしているうちにまた10の時間は1の時間になり、さらにさらに歩みを進めている。自分でもどこからどうきてこうなったのかよくわからないが、気付いたらいろいろなことが進んでいて、地形が変わっている。そういう感覚が最近強い。</p>
<p>ただ1つ言えるのは、自分から変えないことには自分の変えたいことは変わっていかない、ということだ。だから毎日、何かしらこうしたらよいとぶつくさ言いながらも、なんだかんだ集中して仕事をしているのだな、と振り返った。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-43421615422854062002021-05-06T10:02:00.000+09:002021-05-06T10:02:00.895+09:00Web24のAdsセッションに登壇します<p><a href="https://connpass.com/event/211877/">https://connpass.com/event/211877</a></p><p>Webのことをただひたすら24時間議論しよう!という趣旨の「Web24」に登壇します。僕はAdsのセッションオーナーで、セッションは21:50 - 23:20です。Adsセッションでは<a href="https://twitter.com/yamaz">yamazさん</a>、<a href="https://note.com/ryosuke_kawamura">河村さん</a>に登壇をお願いしました。24時間ということで、明日の18:00 - 明後日の18:00までなにかしらのセッションがあります。YouTube Liveで視聴できます。なお、アーカイブは残りません。Liveのみです。</p><p>昨今のWebにおけるAds事情はというと、着々とプライバシー保護の動きが進んでいることを耳にされることも多いのではないかと思います。Privacy Sandbox、iOSにおけるATT、はたまた今後IDとどう向き合っていくかという動きは今現在も議論・提案・実証の繰り返しを続けています。またWeb技術を利用してディスプレイが増えるなど、これまでのスマホ・PCに閉じない新たな領域でプログラマティック広告技術が使われるようになりました。</p><p>今回のセッションはこうした時代を捉えつつ、WebにおけるAdsについてざっくばらんに話せる場になれば、と思っています。なお、Web24は事前のネタあわせをさけ、台本もない、というアクロバティックな会です。当日どんな展開になるのか僕も楽しみにしています。ぜひご覧ください!</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-28529273297518777632021-04-26T19:11:00.002+09:002021-04-26T19:11:27.452+09:00コードから得られた洞察は、あなたが思っているより多い<div>あなたがソフトウェアエンジニアで、コードを読んで隅々までプロダクトを把握し、設計の良し悪しもわかっているのだとしたら、それはどんな洞察よりも細かくて正確なはず。</div><div><br /></div><div>事業を作っていく中で、プロダクトのケイパビリティを増やそうとしたとき、綿密に市場をみて、スコープを決め、ユーザのペインを見て、それを回し続けているチームなら打率はあがっていく。プロダクトが立ち上がって2年ほどはいいが、肌感覚としてそれより長く立ったときにソフトウェアの問題が増えてくる。内部品質の悪化だ。2年もやっているともともと作ろうとしたものではない機能性を増やす場面を重ね、当初いくらきれいに設計したと思っても立ち行かない部分がでてくる。</div><div><br /></div><div>内部で質の悪いところはソフトウェアエンジニアが一番知っている。書きづらいAPIがあったなら、隣接するインタフェース、あるいはデータへのアクセスが良くないなど、実際に何がどう悪いかというのを知っている。この肌感覚は組織にとってとても貴重だ。未然にこれらを潰すことはどんなときでも難しく、賢い人を集めた小さいチームでも起こりうる。しかしながらこれに気づいたとき、どの程度のリードタイムで違和感を解消するかによってプロダクトチームの加速度が変わる。すぐに直せるチームは2年の壁を超えて伸びていく。そうでないチームはプロダクトマネージャーあるいはソフトウェアエンジニア自身が実現したい機能がでてきても、機能をなかなかリリースできずに衰退していく。</div><div><br /></div><div>年数を重ねれば重ねるほどこの壁は高くなる。2年で解消できればまだよく、これが5年ものになるともっと高い。複利で高くなる。壁を超えずに作った機能がさらに壁を高くする。さらに高くなった壁を超えるソフトウェアエンジニアを雇うのは、最初に事業を立ち上げるエンジニアを確保するよりも難しくなってしまう。やりがい、スキルセット、難易度など、採用要件を並べると壁を超えるというのは見劣りがちである。自分はこうした仕事を面白いと思うし、いわゆるソフトウェア考古学が好きな人間なのだが、案外こうした仕事は面白くなさそうに外からは見えがちである。<a href="https://blog.riywo.com/2021/04/software-engineer-who-reads-code/">コードが読めるソフトウェアエンジニア</a>というのはこうした内部環境及び外部環境からみて、価値が高いと自分も考えている。</div><div><br /></div><div>コードそれ自体から得られる洞察の重要性は、ソフトウェアエンジニアなら理解していると思う。しかし、案外それ自体がどれくらい個人にとって大事であるという感覚をもっているとしても(たとえばここを倒しておけば次のタスクがスムーズだ、等)、チームやプロダクトにとっても大事だという感覚は小さめであることが多い。自分ごとは問題のサイズがわかりやすいが、他の人のことは感覚が得られないためサイズを小さく見積もりがちである。</div><div><br /></div><div>---</div><div><br /></div><div>というような話を今日は配属されてきた新卒エンジニアにしたのでした。春だなあ。</div>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-22502699147812044092021-03-26T17:34:00.001+09:002021-03-26T17:34:50.372+09:0032をこえて<p> <table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibRQWqxBP6hXqBxhWUXF4Jf9U8LjXlbRTFUafFqYeZ6N7Ed0NS8l-8kU22yJ2UY7GxN3CULHsm_ivCvxIud1qWp4jUseBJkCeN3ZTrEjujWxSgkCcZA3CrLPO0r88w0TFDepcCAe1VTqZ1/" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img alt="" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="480" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEibRQWqxBP6hXqBxhWUXF4Jf9U8LjXlbRTFUafFqYeZ6N7Ed0NS8l-8kU22yJ2UY7GxN3CULHsm_ivCvxIud1qWp4jUseBJkCeN3ZTrEjujWxSgkCcZA3CrLPO0r88w0TFDepcCAe1VTqZ1/w640-h480/image.png" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">人のいない桜の代々木公園(撮影: 2021/03/26)<br /></td></tr></tbody></table></p><p>春の代々木公園はいつも人だかりになっている。いろんな国の人が集まり、運動したり、宴会をしたり、楽器を弾いたりしている。こんなに天気の良いさくらの日に、がらんとした公園を見るなんて。</p><p>今月は3週間の長めの休暇(<a href="https://voyagegroup.com/culture/wellness/refresh/">ボーナス休暇という制度がある</a>)をいただいて、<a href="https://leetcode.com/suzuken_/">家でまったりとプログラムを書いたりしている</a>。気づけば事業のことやチームのこと、その他事業周辺の多くのものごとを考え続けるという生活スタイルがここ10年弱の間に定着していた。テストやモニタリングのこと、本番で動くプロダクトがどういう作用をあたえるか。そういうものごとは刺激的で、常にあたまのなかに常駐している。周りのクルーには手間をかけてしまっているけれど、こういう休みのときばかりはしばしプロセスをkillして、何か他のことに関心をおけるというもの。遊んでみたり本を読んだりしていたものの、結局パソコンに向かってちまちまとプログラムを書いて遊んでいる。なんだ、仕事とやっていることは同じじゃないかと思ってもいるが、案外これが気に入っている。</p><p>COVID-19で変わってしまった世界を散歩する時間があるのもいい。よい世界ではない・・し、年々花粉症がひどくなってしまっている。しかしながら考え事をしながら練り歩くのは悪くない。休暇の間は散歩、プログラミング、そしてゲーム(<a href="https://store.steampowered.com/app/892970/Valheim/">最近はValheimという世界で海賊・・というより建築家として人参を栽培しながら掘っ立て小屋を量産している</a>)をしたりしている。今日からプロ野球のオープン戦も始まるし、オリンピックのリレーもはじまったし(オリンピックはあるのだろうか?)、世の中が動いているのを楽しく見ている。</p><p>勉強をする時間というのをとりたいなと思っているときに、時間ができるというのはなかなかない。時間というのは欲しいときになく、暇なときにある。XORはだいたい1だ。なぜか今日このごろはちょうど時間がほしいときに時間がある。COVID-19のおかげで予定が全然ないので、デスクでなにかしらに集中する幸せな時間が増えている。</p><p>ともあれ来年にはビール片手に公園で和やかに過ごすのもまた悪くないな、と思っている。いざ64の世界へ。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-2120679409038707942.post-34671728154893459392021-02-19T12:59:00.000+09:002021-02-19T12:59:07.263+09:00「Engineers in VOYAGEー事業をエンジニアリングする技術者たち」のITエンジニア本大賞 2021受賞に寄せて<p>昨年、「Engineers in VOYAGE」がラムダノートさんから出版されました。名前の通り、VOYAGE GROUPのエンジニアリングについて書かれた本になっています。</p><p><a href="https://www.lambdanote.com/products/engineers-in-voyage">Engineers in VOYAGE ― 事業をエンジニアリングする技術者たち</a></p><p>最初この本の企画についてCTOの小賀さんから「和田さんがVOYAGE GROUPのエンジニアにインタビューしてそれをまとめたら面白そうじゃない?」と相談されたのを覚えています。たしか2019年の秋頃。面白そうだけどどう形にするのだろうと思っていたら、あれよという間にラムダノートさんが携わっていただけることになり、おおこれはちゃんとした本になっていくのだなと思いはじめたのが2019年末。そこから章立てなどの本の構成を決め、さてインタビューをしていくか・・となった頃、COVID-19が日本でも感染者がちらほら出始めつつあったのでした。</p><p>自分とajiyoshiさんがインタビューを受けたのが2020年1月。初回のインタビューだったのでどうやっていくかというのも探り探りではありましたが、もうここ5,6年ほど和田さんにはコーチについていただけているのもあり、リラックスしてお話しました。それこそポッドキャストの収録のように、一応事前にどんな項目を話そうかというのをGoogle Docsに箇条書きにしていました。リアーキテクチャや技術的に面白い話になるとやはり多めに話してみたり、あるいは事業的になぜそういう判断ができたのかということについて深堀りしていただいたり。開発を加速するためのデプロイ、アーキテクチャ変遷、組織とコードの関連、負債の返却、故障からの復旧を速くするための工夫、フットワークの軽さ、採用に関する考えなどから意思決定の有り様について振り返る時間となりました。</p><p>この本が生まれたのは、和田さん、そしてラムダノートの鹿野さんのことばを引き出す力があってこそです。私達は普段「いい感じに」といって細かく言語化せずにチーム内でのやりとりをしてしまいがちです。そしてなぜこれがうまくいっているのかについてもまた、うまく言語化できていませんでした。事業部ごとのインタビュー集といった体裁で話し言葉で語られていきますが、僕たちの生の言葉と、読者のみなさまとをつなぐ抽象をお二人が作ってくれたからこそ、こうして多くの方々に共感や発見をしていただけるようになったのかなと思っています。どうもありがとうございます。</p><p>和田さんの昨日の<a href="https://speakerdeck.com/twada/engineers-in-voyage ">Developers Summit 2021 「ITエンジニア本大賞 2021」プレゼン大会</a>の資料にもあるように、この本はとても生々しいです。僕らは実践を通し、日々学び、リスクを選択しながら意思決定を重ねています。あらゆる開発に適用できるメソッドが書かれているわけでもないし、きれいな成功例が書かれているわけでもありません。日々どのような枠組みの問題をどのように解決し、技術者の集団としての振る舞いがどう形成されてきたか。そうした観点から僕らの日々の仕事がこうして紡がれたことを嬉しく思っています。初めてできあがった本を読んでみたときは、中の僕らでも気づかなかった他の事業部の工夫やエピソード、あるいは同僚の審美眼やオーナシップを改めて知り、感心したのでした。また、なぜこうした事業部が独立して生まれてくるのか、そうしたことを中にいながら考える時間にもなりました。</p><p>事業をやっているとなかなか思うように策がはまらないことばかりです。うまくいくことはリスクのとり方が小さすぎることが多いです。それはうまくいっているようでうまくいっておらず、事業的に小さな改善にしかなっていないこともしばしばあります。しかしこれをエンジニアリングと重ね合わせると、成果を早く多く出すためのエンジンを改良するための投資がうまくできるようになり、投資機会が連続して作り出せます。この本にはそうしたVOYAGE GROUPの競争力の源泉の1つを生み出す、エンジニアリングの生の現場が詰まっています。</p><p>日々まだまだ迷うことも多くありますが、これを励みに引き続き事業に悩んでいきたいと思います。ぜひ読んでみてください。</p>Kenta Suzukihttp://www.blogger.com/profile/00241520627943921254noreply@blogger.com