奇跡の脳という本がある。脳科学者であるジルさんが、脳卒中で倒れてしまってから脳の機能を取り戻していくまでを書いた本だ。
奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)
脳の機能について滔々と喋れるほど明るくはないのだが、右脳について気持ちよさを感じるという描写が日常と結びつく部分があった。これを書いてみたい。
左脳の機能が脳卒中によって停止してしまった時の状態を、柔らかい文体で綴られている。「体と世界の境界が曖昧になって、もう私はまるで宇宙と一体になってしまった」なんて書かれると、あれそれどこのSFなんでしょうと言いたくなるほど。でも不思議と平和な気分になって、些細な事に幸せを感じられるようになる。例えば瞑想をしているときのような、というような文があるが、これはチベット仏教での瞑想の本や、いわゆる無意識下に意識を置くような状況を解説する本でよく現れる表現だ。あくまで感覚としてそれが綴られている。面白い。
はてさてそれを真に受けて「世界と一体になろう」という話をいまから書こうとしているのではない。
音を出すという行為を考えてみよう。ギターの弦をくいっと引っ張って、そっと離す。音が出る。ああ、素晴らしい。楽器ってこんなふうに音がなるんだ!もう一度引っ張って、離す。また音が出る。ああ、また素晴らしい。なんでこんなふうに音がなるのだろう。なんでこんなふうに素敵な音が出るのだろう。
そんな原体験が、きっと演奏という行為にはとても身近にある。僕が最初にギターを弾いた時というのもそうだった。
プログラムを書くという行為を考えてみよう。さあ黒い画面を開いて。よくわからないけど、本に書いてあるとおりにやってみよう。irbと打ち込んで、"Hello World"するだけ。おお、なにか出る。2 * 3をしてみよう。6がでる。おお。答えが帰ってくる。
プログラムを書くという行為は、画面に確実に、何か答えを返してくれる。そういうときに僕たちはコンピュータを何かに使えるんじゃないかと考えられるようになるし、何か別のことにも生かせるんじゃないかと考えられるようになる。
「純粋に感じよう」「初心を忘れずに」とはよく言ったものだが、じゃあ何が初心で何が純粋なのかというのがわからないと、忘れてしまうし、感じられなくなってしまう。どういう体験が、どういう行為が、どういう感情が、初心で純粋たるのか。常に僕らの眼の前にあって、手の中にあって、触れているものなのに、なぜかいつもそれを忘れがちになってしまう。
「演奏できるってなんか本当に素晴らしいですね」と「プログラミングってなんか本当に素晴らしいですね」という話をされるときがあるのだけれど、どうしてもプログラミングの場合は、何かが実現できるから、あなたのスキルは素晴らしい、というような話になりがちに思う。音楽の場合はもう少し、その出てきた音そのものについて本当に素晴らしいと思ってくれている人が多くて、音楽って素晴らしいですねという話になる。演奏と音楽の関係って、プログラミングとシステムの関係なのかもしれない。音楽それ自体は演奏だけでは成り立たなくて、曲を作る人、楽器を作る人、音のなる場所、それまでの音楽の歴史が、その瞬間の音楽を作ってる。システムも、いまこの僕がタイピングしているPCを作る人、言語を作る人、全体を設計する人、システムが動く場所があって、そこにあるシステムを動かし続けてる。
どうしてプログラミングはそれ自体が素晴らしいと感じるのが難しいんだろう。もっと気楽に、弦を弾いたり、太鼓を叩いたりするように触れられないのだろうか。やってみると意外と簡単に動くのに、みんな今眼の前で触っているPCのエディタを開いて走らせるだけで。
何かを好きになっていく時には、そのときどきにこういう純粋な喜びを感じる。ギターでFのコードが抑えられるようになった時、初めて関数を書いて実行できた時。ああこれは素晴らしい物がこのさきにはまだまだ待っているのだなあと感じる時が、未だにある。だから両方共楽しんで続けている。
何かをより楽しむために、勉強をしたり練習をしたりする。その過程は大変だったりするけど、純粋にそれを楽しめているか。奇跡の脳をリハビリしていく過程が、これと妙に重なりあった。