何かを考えて、書いて話して弾いて作って見せる。たまにどうしてこんなことをしているんだろうと思いながら、でもやっぱり好きなことはこれだと思いつつ、自分の手癖を楽しみながら今日も何かを作ってみる。何かを作るというのは、僕の中ではとても大事なことだ。大事なことだというか、大事なことにしていて、大事なことになってきたと思う。
今この時点でないものを作るというのは、簡単ではない。もし今ないものを想像して、それがどのようにあるべきかを答えられるなら、それはとても素晴らしいことだ。何か今ないものを作るというのはいつも難しく、ちょっとした大胆さをもって進めないといけない。特に自分がやったことのないようなものというのはより難しく感じてしまう。そして、自分がやったことのないようなことに取り組むときほど本当は面白い。何かやったことをないことをやりはじめたときに既に、やったことのないときの自分とは全く質の違うさまになっている。経験は人を変えてしまう。
何かをしなければならない。あるいは何かをしてくれと言われていて、心のたくさんの部分を占めてしまっている。そういうときにはなぜかやりたいことがたくさんでてくる。試験期間中の学生のとき、テストが終わったらあれをやってみるんだって、何度思ったことだろう。どうもそういうところが人の頭のなかにはあるらしい。そして、嵐が過ぎ去ると多くを忘れてしまう。
何かに衝き動かされるとき、大人だからそういうなんだかわからないものに身を委ねるのはみっともないと思ってしまったり、あるいはよくわからない怖さがあって、できない。そういうことがよく起こる。何度も何度もそうやって動きを止めていると、ある日本当に止まってしまう。時が経ち、いろんな暇がなくなり、すべきと思えることが増えると、どこかうまく回るような場所ができて、だいたいのことはうまくいくようになる。そして、時が過ぎ去ると多くのことを忘れてしまう。
作るということは、時間がかかる。熱を保たないといけないし、体力をつかうし、何より何を作るのか考えなければいけない。ないものを作るのは、ないものを知らないといけない。でも実はないものを全部知ることなんてできなくて、ちょっとおもしろいと思ったものを、小さくてもいいから作ってみるということのほうが、よっぽど作り始めやすい。そうすると、作ったことのないときの自分とは違うものの見方になっている。
子供のころはこれが自然にできていて、何をやってもやったことがなくて新鮮で、面白いように思えていたと思う人も多いかもしれない。これは2つの意味で多分間違っているんじゃないかというのが僕の考えだ。子供であるかどうかは関係ないし、やったことがあるかどうかも関係はない。面白さを捉える力そのもの次第だ。好奇心とは、面白さを捉える力だ。何かを面白いと思えるようになることは、いつも何かを作ろうとすることの始まりになっている。自分がやったことのないものについて、面白さを感じられるかどうか。あるいは自分が面白いと思ったにした事柄について、相変わらず面白いと思えているか。そういう面白さの衝動的な面を、横から覗いてみる。すると、自分の面白さを面白がれるようになる。自分の面白さを覗くことは、自分の作りたいものを知ることだ。
2018/05/14
集中力と好奇心
人は誰しもまだ自分に足りないと思う部分があるものだと思う。僕自身がそうで、事あるごとに前の十分を改め、一日がおわれば一日を改める。もしまたそのときがくればもう少しよく振る舞い、もう少し納得のいく考え方ができたかもしれない。そう思うと一日が終わっている。
未熟さとは、何か足りない状態であるだけではなく、足りない物事を捉える機会である。まだ熟れる余白や間があり、あるいは隣の果実に比べて色づきが足りなかったりする。それを見て、自分を塗りあわせていく。どんな陽にあたればあんな色づきになるのだろうと観察し、下から上から見回して、ようやく自分と違う部分が少しずつ見えてくる。隣の芝生が青いとは、未熟さを知ることだ。
ある物事について深く考える。深く考えているときは気持ちがいいし、視界が明瞭になり、即断し、経験に基づいて様々な考え事が絶え間なく進んでいく。深く考えることは、集中の入り口である。僕たちは普段考え事をしていると思ったら、気がつけば集中の入り口に立っている。集中の中に入ると、長くて短い考えの渦の中に身を委ねられる。その中で気がつけば一日が終わる。
集中力の長さ、深さ、入るまでの時間について。集中するまでに長い時間を要するが、一度集中すれば深く長い。あるいは、細切れの時間にたびたび集中するが、一度の時間は短く、浅い。例えば試合中のスポーツ選手や千人の前で弾いている演奏家、対局中の将棋の棋士、コーディング中のプログラマ、あるいは執刀中の医者。集中力は仕事の質を変えているだろうと想像できるし、集中している対象も様々である。膨大な知識と経験を組み合わせて、適切な手段と方法を選び続ける。フィードバックを得ればその最中に反射的に答える。まだ問題に深く入り込んで頭のなかに依存関係や前提を再構築する。これを繰り返す。するとすっかり集中の深みに潜り込んでいく。もうそれ以外のことは考えていないし、むしろ何も考えてはいなくなる。
長く深く集中するための方法は、準備することだ。四六時中それについて考え、下調べをして、頭の片隅で考えを転がしておく。意識せずとも対象について考えるようになると、集中の入り口に立っている。常に考えていられるものというのは大抵いつも面白く、好奇心が湧く対象である。常に考えるというのは存在せず、常に考えていないからこそ常に考えられる。ずっと考えるというのは疲れてしまう。意識せずともそれについて考えているようになると、あるいは考えてしまうようになっているといつの間にかそうなっていくように人間はできているのかもしれない。頭の片隅にあるとは良くできている表現である。片隅に置くことが、最も深い集中を作る。まだ折りたたんでいない洗濯物でさえも、そうであったらいいのに。
好奇心を失うことは、熟れることだ。なぜだかよくわからないがなぜそれがそのようになっているのかについて深く考えてしまうのである。好奇心は考える事の源泉だ。ぽっかり好奇心が無くなってしまえば、あっという間に集中力は消えてしまう。
2018/05/01
動物農場を読んだ
「すべての動物は平等である。だが一部の動物は他よりももっと平等である。」
短いおとぎ話でありながら、政治的革命と蜂起、事実の歪曲と破滅、沈黙と貧困など、多くの要素が散りばめられているすごい本だった。決してそういう概念について説明することなく、隠喩においてメッセージを伝える。小説ならではの表現を味わえるし、大いにこれらのテーマについて考える時間を与えてくれる一冊だ。
話はシンプルだ。農場の中の動物が蜂起し、農場のオーナーを追い出し、動物自ら農場を運営する。鞭をもったオーナーもいなくなり、自由を謳歌する。しかし新しくリーダーについたブタたちがやがて富を搾取するようになる・・。説明すると3行で終わってしまうのだが、この世界に入り込んで読むと鮮明に想像を掻き立てられる。ただセリフを繰り返すだけの羊、飼いならされる犬、賢いが沈黙するロバ。もともと妥当人間だったのが、人間を追い出してしまってからはそのフレーズも虚しく響く。隠される事実。搾取される収穫物。労働は減らない。徐々に書き換えられる規律。声をあげない動物たちはやがて破滅に向かう。
そしてこの小説にもやはり時代性がある。出版は1945年、世界大戦の最中。社会主義の批判のおとぎ話としてイギリスで出版されようとしていた。しかしながら検閲の影響でなかなか出版できない。私の読んだハヤカワ文庫山形浩生訳では本文末にオーウェル本人の「動物農場」序文案: 報道の自由がある。これがまた時代的背景を説明表している。出版の断れれた背景なども書かれていて実に興味深い。
去年ベルリンやクラクフに訪れたときに切実に感じた強制収容所、大量追放、そして検閲といった事柄について。その事実は文章でみても、本当にそういうことがあったのかどうかすら危ういほど信じ難いものに思える。それが当時も離れている場所の人々がそうだったのだとしたら、生活の自由と穏やかさにかけてこういう物語が受け皿になって伝搬していったのだろうというのは想像に難くない。
訳者あとがきが本書の考察にあたって自分との会話を深めてくれた。
短いおとぎ話でありながら、政治的革命と蜂起、事実の歪曲と破滅、沈黙と貧困など、多くの要素が散りばめられているすごい本だった。決してそういう概念について説明することなく、隠喩においてメッセージを伝える。小説ならではの表現を味わえるし、大いにこれらのテーマについて考える時間を与えてくれる一冊だ。
話はシンプルだ。農場の中の動物が蜂起し、農場のオーナーを追い出し、動物自ら農場を運営する。鞭をもったオーナーもいなくなり、自由を謳歌する。しかし新しくリーダーについたブタたちがやがて富を搾取するようになる・・。説明すると3行で終わってしまうのだが、この世界に入り込んで読むと鮮明に想像を掻き立てられる。ただセリフを繰り返すだけの羊、飼いならされる犬、賢いが沈黙するロバ。もともと妥当人間だったのが、人間を追い出してしまってからはそのフレーズも虚しく響く。隠される事実。搾取される収穫物。労働は減らない。徐々に書き換えられる規律。声をあげない動物たちはやがて破滅に向かう。
そしてこの小説にもやはり時代性がある。出版は1945年、世界大戦の最中。社会主義の批判のおとぎ話としてイギリスで出版されようとしていた。しかしながら検閲の影響でなかなか出版できない。私の読んだハヤカワ文庫山形浩生訳では本文末にオーウェル本人の「動物農場」序文案: 報道の自由がある。これがまた時代的背景を説明表している。出版の断れれた背景なども書かれていて実に興味深い。
去年ベルリンやクラクフに訪れたときに切実に感じた強制収容所、大量追放、そして検閲といった事柄について。その事実は文章でみても、本当にそういうことがあったのかどうかすら危ういほど信じ難いものに思える。それが当時も離れている場所の人々がそうだったのだとしたら、生活の自由と穏やかさにかけてこういう物語が受け皿になって伝搬していったのだろうというのは想像に難くない。
訳者あとがきが本書の考察にあたって自分との会話を深めてくれた。
ここでのオーウェルの批判は、独裁者や支配階層たちだけではなく、本当に不当な仕打ちをうけてもそれに甘んじる動物たちのほうでもある。
(p. 205 訳者あとがきより)この視点は読後にあとがきを読んではじめて持った。「すべての動物は平等である。だが一部の動物は他よりももっと平等である。」これを避けるにはどうしたらよいか。どういう行動をすべきか。権力そのものだけでなく、権力を生む人々の構造そのものに対する批判でもある。「動物農場」の文章は今も生きている。