2018/10/08

「Netflixの最強の人事戦略」を読んだ

パティ・マッコード著、Netflixの最強の人事戦略と題されたこの本はNetflixの人事戦略について時系列に語られている本である。Netflixについてはその強烈な成長と規模、そしてNetflix Cultureにあるように強い組織をつくる文化が築かれていることが知られている。

Netflixらしさを味わいつつ楽しく読んだ。気になった箇所を抜粋する。

---

二章
部下が何もわかっていないように思えたら、それはたぶん、知るべき情報を知らされていないからだ。必要な情報を与えよう。
これはNetflixらしい、端的な指摘だ。マネージャー間での情報密度の濃い組織ではメンバーに情報を公開し、説明し続けないとこういう状況を簡単に作れる。 人を活かしたくないなら情報を公開しなければよいのだ。

これは思考実験として、必ずしもすべての人が素晴らしくはないとした場合、情報は先に公開すべきなのだろうか?あるいは人がある程度優秀になってくるまでは情報を非公開にすべきなのだろうか?僕の考えはやはり情報は公開すべきという考えだ。これは三章で端的に述べられる。

三章
経営上層部は、事業に関する問題を従業員に知らせると不安が高まると考えがちだが、知らせない方がずっと不安を煽ることになる。どのみち、厳しい現実は従業員から隠し通せない。真実を隠したりいい加減なことを伝えたりすれば、不信感を生むだけだ。信頼を成り立たせるのは誠実なコミュニケーションだ。いい加減なことを教えられた従業員は冷笑的になる。冷笑はがん細胞のようなものだ。不満を生み、それがあちこちに転移して自己増殖し、やがて疑心暗鬼や足の引っ張り合いをもたらす。
メンバーの事業上の問題や不安を察する力は、組織のもつ大きな力になりうると僕は考えている。なぜこの不安がすぐに煽られるのかというと、従業員は社内の情報だけではなくて他社や取り組んでいるものごとに対する公開された情報をもとに判断できるからだ。もし非公開な情報が不安を与えるものであったとしても、メンバーはそれをもとにどのように不安に対処するかを考えることができる。もし事業を左右する大事な情報がメンバーに共有されていないとしたら、経営陣は自分たちだけでその問題を解かなければならない。

「コードを書くことは経営判断である」とは同僚のエンジニアも言うところだが、なるべく多くの情報をもとにリスクコントロールをし、細部にまで対応できる組織はやはり強い。そしてメンバーはそれくらい優秀であると思っている。

四章
あれほど手ごわい問題が次々とめまぐるしく降りかかってくるなか、ネットフリックスがつねに自己改革を図り、成長し続けることができたのは、いつも「なぜそれが正しいといいきれる?」や、私のお気に入りのバージョンの「なぜそう信じる気になったのか、わかるように説明してくれる?」と互いに問いかけてほしいと、私たちが従業員に求めたからだろう。
なぜその難しい課題に取り組んでいるのか。なぜやる価値があるのか。理解できないことでも中の人が信じてやる価値があると考えたことに敬意を払い、好奇心によって尋ねよう。このやりとりができるチームは強い。そこには仕事の難しくて面白い課題が詰まっている。
また注意すべきは、「事実主導」が「データ主導」ではないということだ。最近では、データそのものが答えであり究極の真実であるといわんばかりに、データを神か何かのようにあがめる傾向が見受けられる。データすなわち事業運営に必要な事実だ、という危険な誤解がある。信頼性の高いデータは当然必要だが、定性的な判断と、たしかな根拠に基づく意見も欠かせない。チーム内でそうした判断や意見についてオープンに、楽しみながら議論しよう。
事実に基づく議論は、事実を的確に情報として共有するところから始まる。 事実の共有が意見と加わってされてしまう場合、議論が湾曲する。ここではそのような点については触れていないが、事実主導の決定をする場合の難しさだと個人的に感じている。しかしながらそういった事実(いくつかの分岐に基づく結果予想であったり、関係性に基づく特殊なインセンティブが働くような状況など)はたいていデータとして表現できない事が多く、毎回頭を悩ませられる。

五章
チームに優秀な人材を迎え入れたら、たとえそのためにチームの規模を縮小することになったとしても、業績が大幅に向上するだろうか?
これは僕らも常日頃考えているところだ。むしろチームは小さい方がいい。「この人が来たらチームが大きく変わるだろう」と感じて人を迎えられるのは素晴らしい瞬間だ。

七章
私がネットフリックスでまっ先にやったことの一つが、給与制度と人事考課のプロセスを切り離すことだった。そんなことができるのか、ましてや望ましいのかと疑う気もちもわかる。なにしろ、二つの制度は切り離せないほど密接に絡み合っているように思えるからだ。実際、人事考課のプロセスと昇給や給与計算が緊密に結びついていることが、企業が人事考課の廃止に踏み切れない主な理由である。だからこそ、両者を分離すべきだというのだ。
これはまさに今課題だと感じているところだ。僕らの環境で言うとある程度分離はされているが、人事考課あるいは評価のプロセスというのは重く、これにより価値算出されているというのは事実だ。驚くほど昇給するときもあれば、あまり上がらないときもある。給与を決めるプロセスにおいては市場価値と社内で出した価値の大きさを中心に議論を進める。

また本文中にもあるが、「従業員があなたのもとで仕事をするうちに身につけたスキル」 というのは上司部下での人事考課においてはスキルの価値として加味されづらい。かつ、マネージャーとしてはメンバーのスキルを市場と比較して相対的に向上させ、より多くの価値を生み出してもらえる環境をつくることに務めている。マネージャーが環境を作れていなくてメンバーのスキルが伸びていないのか、あるいは本人の伸びが足りないのかというのは各チームを見るときには注目するようにしている。

大前提として、全員のスキルを向上させていこうという話は給与を伸ばそうということに繋がる。組織全体の昇給総額は市場に対してのスキル向上がどの程度あったのかの尺度とも言える。例えばその事業の業績が伸びていなかった場合でも従業員のスキルが昨対比で伸びていたら昇給総額はどのように設定すべきだろうか?
この経験を機に、報酬に対する私たちの見方が変わった。ネットフリックスは一部の職務に専門性と希少性をもたらしているため、社内の給与水準にこだわれば業績貢献者に経済的損失を与えることになる。
これもよく見る話だ。私はソフトウェアエンジニアリングの専門性とインターネット広告に関する希少性で給料をもらっている。もし専門性も希少性も伸びないなら別の仕事を選ぶ。

事業難易度と収益性が伴ってこなくなると、やがてこの専門性の価値が相反してくる。伸びている業界ではこの論理は成り立つが、そうでなければ希少性のほうが有利になる。会社自身も自分自身も、どの専門性と希少性に駒を進めるかを鳥瞰の目をつかい観察するとよい。