2012/04/20

読書について

自分のための時間ができたら、読書をしよう。そんな場面に出会うことが増えました。季節は春、絶好の学びだし日和です。僕も研修の真っ只中にあり、そうした同期の話を聴きつつ、毎日時間が過ぎていきます。

以前、ぐっと読書について近づくことがありました。僕にとって読書と近づく時期というのは、心に迷いがあったり、自分の不甲斐なさを感じる時が多いです。何かを求めて本を読んでいます。本を読むときはいつもそうです。何かを学ぶために本を読んでいます。どこか路頭に迷いそうな、とぼとぼと帰り道を歩きながら、考えていることを確かめるためにも本と向き合うことがあります。

ここでは、読書について、慣れていないと感じている誰かのために書いてみようと思います。ここでは学習のための読書について自分なりに書いてみたいと思います。

失敗したこと



どんな本にも、存在している理由があります。そして、書き手がいます。執筆者というのも様々で、本の内容も無数にあります。その中から、自分のためになる1冊を選んで、対峙する。本を読むという行為はいつもそうです。

なぜ本を読みますか。1冊1冊に、読む理由は異なるはずです。人生観を変えるために読む本もあれば、知識を得るために読む本もあります。

僕は一時期、ビジネス畑の本にはまり、1ヶ月に3万円程度をビジネス本に注ぎ込むという生活をしていたときもありました。そのときはそのときで良かったです。知識が増えていると思いました。そのころ僕は学生でした。今の自分に活きているところはもちろんありますし、たしかに知識は残ったように思います。しかしそのころは釈然としませんでした。純粋な興味で読み始めたものが、今必要なものではなかったからです。自分で学ぼうとして選んだ本が、いつの間にか見栄をはるための読書になってしまったかのようでした。若気の至りだったのかもしれません。その後、哲学書にはまり、とりわけドイツの哲学に惹かれました。そして哲学の起源に興味をもっていきました。どんどん興味は移り変わって、読書を楽しみ、自分の趣向性の移り変わりをもう一人の自分が楽しんで見ているかのような感覚になりました。

何か自分を探求するために読書をするということも、あってしかるべきものなのかもしれません。僕は人の考えについての興味が人一倍大きいようで、それについての知識を本から得ました。そして人についてより深く考えられるようになったと感じています。いつも主体的でした。

では失敗したように感じている、ビジネス本の読書というのはどんなものだったのだろうか。なぜだったのでしょう。主体的に学ぼうとしたのに、学べませんでした。頭の痛い問題でした。

何のために本を読むのか



研修で、良い示唆がありました。仕事というのは、重要であるが緊急なものに追われがちで、重要であるが緊急でないものに対して時間をかけづらくなってしまう。重要であるが、緊急性の高くないもの。これには、今の僕の段階においてだいじなもの、学習が含まれます。意図的にこの時間をかけなければ、能力は身につかない。当たり前のことを見直す良い機会でした。

しかし、いざ学習をする時間ができると、意外と何をしていいかわからなくなるものなのかもしれません。学習、そうだ、本を読もう。動機としては良いと思いますが、本質的ではないです。それは、余った時間を有効に利用していると自分に言い訳しようとしている場合がほとんどです。理由のない読書なんて、結局のところ必要ありません。自己満足に終わらず、学習をするために読書をする。その覚悟がないと、結局のところ時間の無駄に終わってしまうというのが、多くの場合ではないかと、色々な人の話を聞いていて思うのです。

1冊1冊と向き合う度に、自分はなぜこの本を読むのか。この本を通じて、何を学ぼうとしているのかを明確にすることは大事です。僕は本の表紙を開く前に、かならずそのことを考えるようにしています。例えそこで1分費やしても、読了後の成果は全く異なるものになることを知っているからです。

本を読めているか?



実際に取り組む本が決まり、読み始めました。読むこと、それ自体が目的なわけではありません。最終的に何を得るのかが大事です。読んでいる最中に僕が常に意識していることは以下のことです。

・結局著者は何を主張したいのか
・主題は何か
・主題に対してどのように理由付けされているか。著者の意図は。
・従来手法、又は他の考えと比較して何が違うのか
・それに対する私の考えは何か。その根拠は何か。

シンプルにするとこれらに答えられれば読書の目的は概ね達成できるように思います。シンプルですが、いざ尋ねられると答えられないかもしれません。実際に身近な人に、今読んでいる本について上記の質問をしてもらえればわかりやすいと思います。わかりやすく自分の言葉にして説明できなければ、結局その本から自分の身になることは何一つ得られていません。ましてや、その知識を利用して他のことに活かし、他の人に影響することなど到底出来ないものだと思います。どれだけシビアに、積極的に読書できているかをその都度確認することは、どんな読書でも大事です。

1冊の本の世界に閉じない



1冊の本は、新しい視点を開くトリガーに成り得ます。新しい視点を得る。これは本の魅力です。今まで考えようともしなかったことが、読書のあとではその世界の大きさを知ることになる。そんな体験を何度もしました。日本の歴史を学べば戦争の価値観についてさらに追求したくなり、インターネットの起源について学べばそれを考えついた人の思想をより追って行きたくなるものです。

どんな本でも、1冊のなかに森羅万象を詰め込むことなんてできません。著者は神様じゃありません。その文章の背景に、いろいろな要素があります。その人が読んだ本があります。今はWikipediaがあります。Googleで調べることも、身近な友達に聞くこともできます。興味をもった自分は、その世界に深く携わっている人の中でもっとも未熟なはずです。例え、誰かから薦められた1冊だったからといって、盲目的にその1冊だけを信じることは、偏った見識に捉えられることにほかなりません。その分野について知らなければならないのであれば、あらゆる可能性からそれについて調べるべきです。でも、いきなり全てを調べることはできません。それで全く構わないはずです。なぜなら、世の中のどんな人も、そうして学習し始めているはずです。本を読み始めた時と同じように、興味のあるものから調べていけばいいです。難しく考える必要は全くありません。

本の世界から飛び出た時に必要な物は、最初に本を読んだ時にその分野の要素をつかむことです。できれば、メインとなるトピックを掴んでおくと、その後の探索が行いやすいでしょう。常に鳥瞰することを意識すると、どんな本でも接し方が変わります。ミクロの目も大事ですが、マクロの目がないと生きて来ません。自分の意見をより確固としたものにするには、そうした検証を加えてからでも遅くはないはずです。これによって初めて、その分野の人たちと会話ができる入り口に立てるのではないかと思います。


読書は楽しいです。