「どれくらい給料をもらえば満足するのかわからない」
そういうこともある。私がプロとしてした仕事がどれくらいの価値があるの?というのは価値を測る人にしかその場面に立たない。その人がスキルがあって、仕事が専門的になり、仕事内容をわかりやすくいくら説明したとしても、そして成果物自体がわかりやすくてそのプロセスがあまりにわかりづらかったとしても、価値を測る人にはそこで価値を測るしかない。これは健全である。見える形の仕事、求められた仕事、あるいは与えられた範囲を超えて、期待を超えてより良いものを出すこと、あるいは期待を超える方法を想像すらされていない場合に形を変えてものを提供すること、そういったときに面白さを感じるものである。
普段を仕事をしてお金をもらっている。私はプログラマなので、ある仕事をこなして、信頼してもらって、「じゃああなたにはこれくらい払いますね」といった塩梅で給料を頂いている。どれくらいそれに時間をかけたのか?それは関係ない。やったこと、こなしたこと、私が発想したこと、実現したこと、影響を与えたこと、そういったことをいろいろ加味して、いや正確には加味できる範囲で評価をして、具体的な額を決めていく。そんなフェーズがある。
これはとても平等とは言い難い。同じプログラマ、ソフトウェアエンジニア、場合によっては技術領域のことをやっているというだけで、人を評価しなければならないこともある。どれくらいその人がやったことに価値があるか、ということに今度は自分が評価する側で関わる機会が増えてきたりする。その時になんと評価して良いかというものにはすごく悩む。悩しすぎる。私も専門家だけれども、私の専門や強みと完全に重なっている人などいないし、かつ私がわかる部分だけで、その部分だけで評価をしてしまってはその人の仕事を完全に評価できたとは言えないのである。私の仕事のすべてを見て欲しい、そういう要望というのは多くの場合叶えられないものなのである。対価とはそういったある種の非対称性をくぐり抜けてもなお伝わった先に、「価値があるな」という認識がお互いにできたときに初めてプラスになっていくものだろうと、私は思っている。
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満足感について。私が日々どういう考えでキーボードとディスプレイに向かっているのか。なぜプログラムを書いて、楽しい、いや楽しいのだがやはり、ディスプレイを見るのは疲れるし、長い間座って作業をするのは、まあ立っているよりは個人的には楽だけれども大変なことだし、何より集中し続けなければいけない。100%の体調がずーっと続くことはなくて、体調にも波があるから、それを見越して長い長い行程を持続して走り抜ける必要がある。私個人としては何かを作ろうと思う時は楽しいし思い描く時は楽しいけども、やはり詰まる時や実際に描いたものがなかなか動かない時には頭を抱えながら進めるのである。楽しいから楽なんでしょう、というのではないのである。どちらかというとじーっとこらえて、こらえて、そのあとにちょっと嬉しい瞬間が何かあって、そのためにものを作っているのである。言うなれば少なくても90%くらいは耐える時間が続くものである。
じゃあそういう、人それぞれにあるそういったものづくりの過程があって、評価という軸に乗せた時にそれが全部観れるのか?そんなことは評価されないのである、いや、評価できないと思っているし、中途半端にそれを見極めることはできないように思う。「私の仕事を見てくれ、素晴らしい仕事をしたのだから」と主張しても10%くらいつたわれば多い方だ。そういう方法で満足感を高められるのだろうかというと難しいものなのである。
人それぞれに受け取り方はあると思うのだけれど、私の中で満足感、仕事に対して、私の書いたコードに対して、実現された物事に対して、その完成度や変化に対して価値を重んじるのは、自分自身の中の問題なのである。ものを作るというのは、ものすごく私的な事柄であって、考えて何かを作るというのは至極自分との戦いなのである。どういう時間にも、シャワーを浴びていても、友達と飲んでいても、歩いていても、四六時中頭の中にはそのことがどうしても離れなくて、それを苦としない体制を自分の中で作り上げて、自分の満足できるものを作るということをしている。満足というのは、満足という字面ほど素晴らしいものではなくて、何かしら、その時点で自分自身の納得感を作るということに他ならない。なので、その時満足したことでも次の時点では満足しないというのが常である。同じものを作っても面白くないでしょう?工夫のないものを作っても面白くないでしょう?
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そんな話を今日だいぶ雑多な感じで話をしていたんだけれども、いろんな人と話していてどういう時にエンジニアの仕事というのは面白いのでしょうかと聞かれた時に、それがとても内面的なことなんですよとお話ししても伝わりづらいように思うのはとても難しいことであるなと思ったりする。全員がそうだというわけでもなく、とても僕の個人的な話として、そういうことなんですよとお伝えするようにしているのだけれども、じゃあそれはすごくインパクトのあるアウトプットがあったから嬉しいかとか、1億人に使われたから嬉しいかとかそういうことではなくて、1個人の作り手としてはすごく内面的な経験の積み重ねなんですよということを、言うなればぼやいていたのであるということにまたこう書いていて気がつかされる。
きっとこう言う話は、ある意味損であるかもしれない。でも仕方ないのかなとも思っている。プロとしてやるということは、そういう覚悟の決め方をして他の人たちの土俵に上がって、比較されながらその上で信頼してもらうしかないという、そういう働き方をしているということなのだと思う。そして進めば進むほど土俵には人がいなくなっていく。わかりやすく比較してもらう人がいる場合というのはある意味幸運なのである。そう言ったジレンマを抱えながらも、進み続けるしかないというのもまた、難しいものだなと思わざるをえないのである。それもまた、覚悟を持って取り組み続けるということの一環でもあるのだ。