来週の日曜日、Tokyo to New York 2016に出演します。白寿ホール、14:30開場15:00開演です。
昨年、リベルテとしてマンドリンとクラリネットシリーズで共演したクラリネット奏者、Thomas PIERCYさんの主催するコンサートシリーズになります。2013年に開始されて、今年は4年目になります。今回はリベルテとして以下の3曲を演奏します。
Masatora GOYA 合屋正虎 “A Summer Long Gone” Concerto for Clarinet (Composed for Thomas Piercy)
Osamu KAWAKAMI 川上統 "Moose" Double Concerto for Clarinet and Piano (Composed for Aki Takahashi and Thomas Piercy)
Kazuyuki TAGUCHI 田口和行 “Azure Child” Double Concerto for Clarinet and Mandolin (Composed for Thomas Piercy and Go Mochizuki)
合屋さんのA Summer Long Goneは昨年のマンドリンとクラリネットの際に初演した作品です。クラリネット協奏曲となっています。初回リハですぐにテンポや呼吸あわせも安定しました。リベルテでクラリネットと演奏をするのは前回が初めてでしたが、個人的にはだいぶ呼吸を合わせたり、歌いやすくするためにどう弾いたらいいかというのを感覚としてつかめてきたように思います。
川上さんのMooseはピアノとクラリネットの二重協奏曲です。今回が初演となります。ピアノは高橋アキさんです。昨日初めて全体集まったリハがあり、合わせをしました。トムが「その音がMooseっぽいよね」などと冗談を言いながら練習していたりするのですが、Mooseというのは日本語で言うところのヘラジカのことのようです。私はすっかり魚の名前だと思っていました。川上さんの作品は魚の絵のイメージがあったのです。去年12月の演奏会で演奏した川上さんのヘリコプリオンではバリバリとした攻撃的な曲でしたが、このMooseは音がぐっと減って、1つ1つ音の跳ねる感じを強くつけていくように弾いています。そこにピアノとクラリネットがあって、リベルテとしてはだいぶシビアにイントネーションやリズム感、音の輪郭やソリッドさを要求されているように思いました。
田口さんのAzule Childはクラリネットとマンドリンの二重協奏曲となっています。昨年のマンドリンとクラリネットの際に初演した作品です。この曲は個人的にはすごく楽しい曲です。途中でとある曲の引用があってお茶目なのですが、そのままマンドリンとクラリネットが遊びまわっていく、といったらいいのでしょうか、それくらいこう自由な感じで遊びがある曲です。すごく余談かつマニアックなポイントを説明すると、クラシックギターでこれだけピックを使った曲は個人的には初めてで、この一年間でだいぶピッキングスキルが上がって気がしています。でも確かに、途中の荒れていく部分では指だと辛いのです。
すごく個人的な話ですが、高橋アキさんのピアノは1ファンとして色々な演奏をCDごしに聞いていました。武満さんのピアノ作品はほとんど高橋アキさんの演奏で初めて聞いたものでした。なので昨日一緒にリハーサルできたのはとても嬉しいことでした。とはいえもちろん本番の舞台は客席ではありませんから、しっかり弾いていけるように準備していこうと思います。
以下コンサート概要です。
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Tokyo to New York 2016 Tokyo - TONADA PRODUCTIONS
http://www.tonadaproductions.com/tokyo-to-new-york-2016-tokyo.html
「Tokyo to New York」コンサートシリーズは東京とニューヨークの絆と音楽を祝うコンサートシリーズです。いわゆる西洋の楽器と日本の伝統楽器のために作曲された曲目を演奏します。アバンギャルドからコンテンポラリー、前衛からミニマリズム、またはJポップや ジャズなど幅の広いスタイルの音楽をお届けします。「Tokyo to New York」コンサートは、日米の作曲家とその両国で活動する演奏家とのコラボレーションによるコンサートです。 初年度2012年以来、「Tokyo to New York」コンサートシリーズで初演した作品数は、世界初演58作品、日本初演16作品、米国初演21作品を数えています。
米国での「Tokyo to New York」コンサートはニューヨークタイムズ紙の批評家のピックアップ・コンサートとして選ばれ、NYClassical Review紙は「Tokyo to New York」コンサートをニューヨークにおけるコンサートシーズンのハイライトとして紹介しています。 Lucid Culture Magazine は「優れた演奏に裏打ちされたジャンルの広い、新作品を集めた室内楽コンサート」と 評されました。
ニューヨークのオンラインマガジンLucid Cultureには、「ピアシーが奏でる日本とアメリカの作曲家たちによる芳醇なプログラム」、「目を見張るような多様性と技巧性にあふれた室内楽作品 は、日本の作曲家によるニューヨークへの視点と、アメリカの作曲家による日本への視点に基づいて書かれている。作品の多くは比較的短いけれども、演奏者たちはみな情熱と深い洞察力、繊細さを持って、多種多様な性格を持つ作品群を見事に解釈してみせた」と評価されています。
2016/02/21
2016/02/19
仕事をすること、お金のこと。そして満足感の話。
「どれくらい給料をもらえば満足するのかわからない」
そういうこともある。私がプロとしてした仕事がどれくらいの価値があるの?というのは価値を測る人にしかその場面に立たない。その人がスキルがあって、仕事が専門的になり、仕事内容をわかりやすくいくら説明したとしても、そして成果物自体がわかりやすくてそのプロセスがあまりにわかりづらかったとしても、価値を測る人にはそこで価値を測るしかない。これは健全である。見える形の仕事、求められた仕事、あるいは与えられた範囲を超えて、期待を超えてより良いものを出すこと、あるいは期待を超える方法を想像すらされていない場合に形を変えてものを提供すること、そういったときに面白さを感じるものである。
普段を仕事をしてお金をもらっている。私はプログラマなので、ある仕事をこなして、信頼してもらって、「じゃああなたにはこれくらい払いますね」といった塩梅で給料を頂いている。どれくらいそれに時間をかけたのか?それは関係ない。やったこと、こなしたこと、私が発想したこと、実現したこと、影響を与えたこと、そういったことをいろいろ加味して、いや正確には加味できる範囲で評価をして、具体的な額を決めていく。そんなフェーズがある。
これはとても平等とは言い難い。同じプログラマ、ソフトウェアエンジニア、場合によっては技術領域のことをやっているというだけで、人を評価しなければならないこともある。どれくらいその人がやったことに価値があるか、ということに今度は自分が評価する側で関わる機会が増えてきたりする。その時になんと評価して良いかというものにはすごく悩む。悩しすぎる。私も専門家だけれども、私の専門や強みと完全に重なっている人などいないし、かつ私がわかる部分だけで、その部分だけで評価をしてしまってはその人の仕事を完全に評価できたとは言えないのである。私の仕事のすべてを見て欲しい、そういう要望というのは多くの場合叶えられないものなのである。対価とはそういったある種の非対称性をくぐり抜けてもなお伝わった先に、「価値があるな」という認識がお互いにできたときに初めてプラスになっていくものだろうと、私は思っている。
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満足感について。私が日々どういう考えでキーボードとディスプレイに向かっているのか。なぜプログラムを書いて、楽しい、いや楽しいのだがやはり、ディスプレイを見るのは疲れるし、長い間座って作業をするのは、まあ立っているよりは個人的には楽だけれども大変なことだし、何より集中し続けなければいけない。100%の体調がずーっと続くことはなくて、体調にも波があるから、それを見越して長い長い行程を持続して走り抜ける必要がある。私個人としては何かを作ろうと思う時は楽しいし思い描く時は楽しいけども、やはり詰まる時や実際に描いたものがなかなか動かない時には頭を抱えながら進めるのである。楽しいから楽なんでしょう、というのではないのである。どちらかというとじーっとこらえて、こらえて、そのあとにちょっと嬉しい瞬間が何かあって、そのためにものを作っているのである。言うなれば少なくても90%くらいは耐える時間が続くものである。
じゃあそういう、人それぞれにあるそういったものづくりの過程があって、評価という軸に乗せた時にそれが全部観れるのか?そんなことは評価されないのである、いや、評価できないと思っているし、中途半端にそれを見極めることはできないように思う。「私の仕事を見てくれ、素晴らしい仕事をしたのだから」と主張しても10%くらいつたわれば多い方だ。そういう方法で満足感を高められるのだろうかというと難しいものなのである。
人それぞれに受け取り方はあると思うのだけれど、私の中で満足感、仕事に対して、私の書いたコードに対して、実現された物事に対して、その完成度や変化に対して価値を重んじるのは、自分自身の中の問題なのである。ものを作るというのは、ものすごく私的な事柄であって、考えて何かを作るというのは至極自分との戦いなのである。どういう時間にも、シャワーを浴びていても、友達と飲んでいても、歩いていても、四六時中頭の中にはそのことがどうしても離れなくて、それを苦としない体制を自分の中で作り上げて、自分の満足できるものを作るということをしている。満足というのは、満足という字面ほど素晴らしいものではなくて、何かしら、その時点で自分自身の納得感を作るということに他ならない。なので、その時満足したことでも次の時点では満足しないというのが常である。同じものを作っても面白くないでしょう?工夫のないものを作っても面白くないでしょう?
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そんな話を今日だいぶ雑多な感じで話をしていたんだけれども、いろんな人と話していてどういう時にエンジニアの仕事というのは面白いのでしょうかと聞かれた時に、それがとても内面的なことなんですよとお話ししても伝わりづらいように思うのはとても難しいことであるなと思ったりする。全員がそうだというわけでもなく、とても僕の個人的な話として、そういうことなんですよとお伝えするようにしているのだけれども、じゃあそれはすごくインパクトのあるアウトプットがあったから嬉しいかとか、1億人に使われたから嬉しいかとかそういうことではなくて、1個人の作り手としてはすごく内面的な経験の積み重ねなんですよということを、言うなればぼやいていたのであるということにまたこう書いていて気がつかされる。
きっとこう言う話は、ある意味損であるかもしれない。でも仕方ないのかなとも思っている。プロとしてやるということは、そういう覚悟の決め方をして他の人たちの土俵に上がって、比較されながらその上で信頼してもらうしかないという、そういう働き方をしているということなのだと思う。そして進めば進むほど土俵には人がいなくなっていく。わかりやすく比較してもらう人がいる場合というのはある意味幸運なのである。そう言ったジレンマを抱えながらも、進み続けるしかないというのもまた、難しいものだなと思わざるをえないのである。それもまた、覚悟を持って取り組み続けるということの一環でもあるのだ。
そういうこともある。私がプロとしてした仕事がどれくらいの価値があるの?というのは価値を測る人にしかその場面に立たない。その人がスキルがあって、仕事が専門的になり、仕事内容をわかりやすくいくら説明したとしても、そして成果物自体がわかりやすくてそのプロセスがあまりにわかりづらかったとしても、価値を測る人にはそこで価値を測るしかない。これは健全である。見える形の仕事、求められた仕事、あるいは与えられた範囲を超えて、期待を超えてより良いものを出すこと、あるいは期待を超える方法を想像すらされていない場合に形を変えてものを提供すること、そういったときに面白さを感じるものである。
普段を仕事をしてお金をもらっている。私はプログラマなので、ある仕事をこなして、信頼してもらって、「じゃああなたにはこれくらい払いますね」といった塩梅で給料を頂いている。どれくらいそれに時間をかけたのか?それは関係ない。やったこと、こなしたこと、私が発想したこと、実現したこと、影響を与えたこと、そういったことをいろいろ加味して、いや正確には加味できる範囲で評価をして、具体的な額を決めていく。そんなフェーズがある。
これはとても平等とは言い難い。同じプログラマ、ソフトウェアエンジニア、場合によっては技術領域のことをやっているというだけで、人を評価しなければならないこともある。どれくらいその人がやったことに価値があるか、ということに今度は自分が評価する側で関わる機会が増えてきたりする。その時になんと評価して良いかというものにはすごく悩む。悩しすぎる。私も専門家だけれども、私の専門や強みと完全に重なっている人などいないし、かつ私がわかる部分だけで、その部分だけで評価をしてしまってはその人の仕事を完全に評価できたとは言えないのである。私の仕事のすべてを見て欲しい、そういう要望というのは多くの場合叶えられないものなのである。対価とはそういったある種の非対称性をくぐり抜けてもなお伝わった先に、「価値があるな」という認識がお互いにできたときに初めてプラスになっていくものだろうと、私は思っている。
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満足感について。私が日々どういう考えでキーボードとディスプレイに向かっているのか。なぜプログラムを書いて、楽しい、いや楽しいのだがやはり、ディスプレイを見るのは疲れるし、長い間座って作業をするのは、まあ立っているよりは個人的には楽だけれども大変なことだし、何より集中し続けなければいけない。100%の体調がずーっと続くことはなくて、体調にも波があるから、それを見越して長い長い行程を持続して走り抜ける必要がある。私個人としては何かを作ろうと思う時は楽しいし思い描く時は楽しいけども、やはり詰まる時や実際に描いたものがなかなか動かない時には頭を抱えながら進めるのである。楽しいから楽なんでしょう、というのではないのである。どちらかというとじーっとこらえて、こらえて、そのあとにちょっと嬉しい瞬間が何かあって、そのためにものを作っているのである。言うなれば少なくても90%くらいは耐える時間が続くものである。
じゃあそういう、人それぞれにあるそういったものづくりの過程があって、評価という軸に乗せた時にそれが全部観れるのか?そんなことは評価されないのである、いや、評価できないと思っているし、中途半端にそれを見極めることはできないように思う。「私の仕事を見てくれ、素晴らしい仕事をしたのだから」と主張しても10%くらいつたわれば多い方だ。そういう方法で満足感を高められるのだろうかというと難しいものなのである。
人それぞれに受け取り方はあると思うのだけれど、私の中で満足感、仕事に対して、私の書いたコードに対して、実現された物事に対して、その完成度や変化に対して価値を重んじるのは、自分自身の中の問題なのである。ものを作るというのは、ものすごく私的な事柄であって、考えて何かを作るというのは至極自分との戦いなのである。どういう時間にも、シャワーを浴びていても、友達と飲んでいても、歩いていても、四六時中頭の中にはそのことがどうしても離れなくて、それを苦としない体制を自分の中で作り上げて、自分の満足できるものを作るということをしている。満足というのは、満足という字面ほど素晴らしいものではなくて、何かしら、その時点で自分自身の納得感を作るということに他ならない。なので、その時満足したことでも次の時点では満足しないというのが常である。同じものを作っても面白くないでしょう?工夫のないものを作っても面白くないでしょう?
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そんな話を今日だいぶ雑多な感じで話をしていたんだけれども、いろんな人と話していてどういう時にエンジニアの仕事というのは面白いのでしょうかと聞かれた時に、それがとても内面的なことなんですよとお話ししても伝わりづらいように思うのはとても難しいことであるなと思ったりする。全員がそうだというわけでもなく、とても僕の個人的な話として、そういうことなんですよとお伝えするようにしているのだけれども、じゃあそれはすごくインパクトのあるアウトプットがあったから嬉しいかとか、1億人に使われたから嬉しいかとかそういうことではなくて、1個人の作り手としてはすごく内面的な経験の積み重ねなんですよということを、言うなればぼやいていたのであるということにまたこう書いていて気がつかされる。
きっとこう言う話は、ある意味損であるかもしれない。でも仕方ないのかなとも思っている。プロとしてやるということは、そういう覚悟の決め方をして他の人たちの土俵に上がって、比較されながらその上で信頼してもらうしかないという、そういう働き方をしているということなのだと思う。そして進めば進むほど土俵には人がいなくなっていく。わかりやすく比較してもらう人がいる場合というのはある意味幸運なのである。そう言ったジレンマを抱えながらも、進み続けるしかないというのもまた、難しいものだなと思わざるをえないのである。それもまた、覚悟を持って取り組み続けるということの一環でもあるのだ。
2016/02/14
「わたしを離さないで」を読んだ
さっき読み終わって呆然としている。最後まで一貫して少女の語り口が続いていって消えていってしまった。
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「わたしを離さないで」はカズオ・イシグロさんの小説である。先日本屋でばったり見つけた。今ドラマもTBS系列でやっている。1話だけ見たのだがあとは録画していてまだ見ていない。
こんなにも終始切なさのつきまとう小説があるだろうか。今まで読んだ小説の中で、もしかしたらもっともシンプルな構成かもしれない。主たる登場人物も少なく、心の動きがほとんどだ。最後まで一貫してキャシーの視点で書かれている。その描き方がずーっと一定した距離を保っている。自分を見つめている視点の距離がぶれない。そして朗々と話が進んでいく。良いメロディーでも感情的に演奏しすぎるとかえって良さを損なってしまうことがよくある。この小説は良いストーリーを、朗々と主人公の視点で時系列に描き、一定のペースですっと読み手に伝えてくる。あまりにも読みやすいので3時間ほどで読んでしまった。そして今ぐっと重みを感じている。
ストーリーを紹介すると3行でまとめられそうなのだが、それをしてしまっては意味がないのでやめておく。いや、もちろんそれを知っても十分楽しめる小説であることは間違いないのだけれども、せっかくだから何も知らない状態で読むのが一番だろうと思う。
ドラマの1話ではすでに小説の中の核心的な事実を既に導入されていた。ドラマも楽しみである。
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「わたしを離さないで」はカズオ・イシグロさんの小説である。先日本屋でばったり見つけた。今ドラマもTBS系列でやっている。1話だけ見たのだがあとは録画していてまだ見ていない。
こんなにも終始切なさのつきまとう小説があるだろうか。今まで読んだ小説の中で、もしかしたらもっともシンプルな構成かもしれない。主たる登場人物も少なく、心の動きがほとんどだ。最後まで一貫してキャシーの視点で書かれている。その描き方がずーっと一定した距離を保っている。自分を見つめている視点の距離がぶれない。そして朗々と話が進んでいく。良いメロディーでも感情的に演奏しすぎるとかえって良さを損なってしまうことがよくある。この小説は良いストーリーを、朗々と主人公の視点で時系列に描き、一定のペースですっと読み手に伝えてくる。あまりにも読みやすいので3時間ほどで読んでしまった。そして今ぐっと重みを感じている。
ストーリーを紹介すると3行でまとめられそうなのだが、それをしてしまっては意味がないのでやめておく。いや、もちろんそれを知っても十分楽しめる小説であることは間違いないのだけれども、せっかくだから何も知らない状態で読むのが一番だろうと思う。
ドラマの1話ではすでに小説の中の核心的な事実を既に導入されていた。ドラマも楽しみである。
ai kuwabara trio project@新宿ピットインに行ってきた
昨年末にサントリーホールブルーローズでの演奏を聴いていて、せっかくだし普段のバンド編成での演奏を聴いてみたいなあと思い新宿ピットインに行ってみた。初ピットイン。予約をして行ったのだけど普段のコンサートホールと違って、一人一人名前を呼ばれて入場するのが新鮮。病院の受付か、いや、何か闘技場に入っていくような感じか。直前に予約をしたので立ち見になってしまったのだけど、私の後からもどんどん人が入ってきていて結果的に会場のお客さん半分くらい立ち見だったんじゃないだろうか。大盛況である。
音を聴いてまず思うのが、前回ブルーローズで聴いた時と比べて音の輪郭が全然違うこと。エレキベースの音がしっかり音色を持って聞こえる。ホールで聴くのも好きだけど、こっちの方が、というかピットインのこの会場がすごく近いので良い。ドラム・ピアノ・ベースの音のバランスも心地よくて、生で聴くのに気持ち良い。普段ジャズはCDでしか聴けていないのでもっとちゃんと会場に足を運ぼうと反省した。
曲の始まりからガツンと殴られるように展開してくる。おお、ドラムが入るとこんなに違うのかと驚く。ドラムは号令のようなものなのかもしれない。会場の温度感をどんどん上げていって、場所を作ってしまう。そう思えばピアノがそのリズムに答えつつ遊びまわって、音程をつけてリズムを少し変えて展開していく。いろんなCDを聞くと思うのは、ai kuwabara trio projectで面白いのはエレキベースの使い方じゃないかなぁと感じる。あんなに旋律的に、音場を作るためにエレキベースを使えるものなのだなぁと思う。僕がクラシックギター弾きだからそう感じるのかもしれないけど、エレキベースというのはまだまだいろんな可能性があるのだろうなあと思う。今日も、いわゆるE-Bowのような音の出し方をしたりという、なんだろう、バラードの曲の時に擦弦的な音の出し方をするようなことをしていたり。これも掛け合わせあってのことなんだけども、ああ効果的だなぁと思いなあがら聴いていた。
途中でHandsという曲があって、これは今日の新曲とのことだった。きっとどのあたりがうまくいったか?と出演者の皆さんに聞けばいろんな話が聞けて面白いのだろうなぁと思うけども、個人的にはこの曲のフリーな部分が面白かった。いい意味で一番予想できなかったのである。ウッドベースはずっと規則的にリズムを刻んでいくのだけども、ドラムとピアノが全然違う拍子を取りながら(もしかしたらそう聞こえるだけなのかも?でも少なくとも違う拍子感を取っているように聞こえた)、でもお互いに作用しながらずっと曲が進んでいくのである。本当にジャズは耳で弾けるのだなあと見ていて思うのだった。
音を聴いてまず思うのが、前回ブルーローズで聴いた時と比べて音の輪郭が全然違うこと。エレキベースの音がしっかり音色を持って聞こえる。ホールで聴くのも好きだけど、こっちの方が、というかピットインのこの会場がすごく近いので良い。ドラム・ピアノ・ベースの音のバランスも心地よくて、生で聴くのに気持ち良い。普段ジャズはCDでしか聴けていないのでもっとちゃんと会場に足を運ぼうと反省した。
曲の始まりからガツンと殴られるように展開してくる。おお、ドラムが入るとこんなに違うのかと驚く。ドラムは号令のようなものなのかもしれない。会場の温度感をどんどん上げていって、場所を作ってしまう。そう思えばピアノがそのリズムに答えつつ遊びまわって、音程をつけてリズムを少し変えて展開していく。いろんなCDを聞くと思うのは、ai kuwabara trio projectで面白いのはエレキベースの使い方じゃないかなぁと感じる。あんなに旋律的に、音場を作るためにエレキベースを使えるものなのだなぁと思う。僕がクラシックギター弾きだからそう感じるのかもしれないけど、エレキベースというのはまだまだいろんな可能性があるのだろうなあと思う。今日も、いわゆるE-Bowのような音の出し方をしたりという、なんだろう、バラードの曲の時に擦弦的な音の出し方をするようなことをしていたり。これも掛け合わせあってのことなんだけども、ああ効果的だなぁと思いなあがら聴いていた。
途中でHandsという曲があって、これは今日の新曲とのことだった。きっとどのあたりがうまくいったか?と出演者の皆さんに聞けばいろんな話が聞けて面白いのだろうなぁと思うけども、個人的にはこの曲のフリーな部分が面白かった。いい意味で一番予想できなかったのである。ウッドベースはずっと規則的にリズムを刻んでいくのだけども、ドラムとピアノが全然違う拍子を取りながら(もしかしたらそう聞こえるだけなのかも?でも少なくとも違う拍子感を取っているように聞こえた)、でもお互いに作用しながらずっと曲が進んでいくのである。本当にジャズは耳で弾けるのだなあと見ていて思うのだった。