2024/03/25

今を生きる

子供が生まれてからというもの、家族と過ごす時間がぐっと増えた。

休日は朝から散歩をし、花の色を声に出しながら(「あか!きいろ!」)、あちらこちらと寄り道しつつ駅に向かう。踏切をみたり(「かんかん!しゃだんき!」)、電車を3本ほど見送りつつホームから眺めたり(今は「ぎんざせん!」ブームだ)、ラーメンを食べたりしている。

思えばコロナでも家で過ごす時間が増えた。それまで外食なりでかけていたのが、家で楽しむ時間を増やした。本を読み、家事をして、ゲームをして、また家でご飯を食べた。外出は増えたものの、それ以来すっかり家でご飯を食べるのが楽しみになり、わいわいと食べている。食べながら散らかすのは日常だが(さっきもたらとパンをうしろに放り投げていた)、家のなかなのでまあ片付ければいいか、となる。

片付けの時間は日に日に増えているが、これもまた今だからこそだなあとも想像している。なぜこのパネルのピースがソファの下に・・?ということが毎日のように起こる。想像を超えた散らばり方をみると、ついついおかしくなってしまう。

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平日の日中、あるいはスキマ時間さえあれば常に仕事の考えごとをしている。いまもこれを書きながら、あの文書を直して、プレゼンをつくって・・などと考えている。作業時間が取れれば進むが、事前に考えておかなければ進むものも進まないというのが最近のほとんどである。

10年も前だが、入社してすぐのころは仕事後にAJITOにいって作業をするのが定番であった。今は家でご飯を食べ、寝かしつけをはじめてからがその時間である。この時間は興味のあるものを自由にみつつ、明日に向けて考えごとをしたり、反省したり、返事をしたりしている。

幸いなことに仕事を嫌いになることもなく、忙しさの波はあるものの、淡々と楽しく仕事をしている。10年前の自分が聴いたらどう思うだろうか?「まあそんなもんだよね」といいそうな気はする。思ったよりも忙しくないね、と言うかもしれない。それともまあ悪くないね、というだろうか。ただまあ、そのときなってみなければわからないものだ。

2023/11/17

音楽を聴いていない

しばらく、音楽を聴いていない。

2020年になってから、ホールに足を運ぶこともなくなってしまった。

たまにバスに乗ると、Spotifyをつけてぼんやりと最近のヒット曲を流してみる。1人の時間は貴重で、移動中は考えごとに事欠かない。あの仕事をどうしよう、あの相談ごとをどうしよう、家のことをどうしよう。アプリを開きながらニュースを眺めてまた考えごとをする。あれこれ考えていたらオフィスに着く。

聴く集中力がすっかりなくなってしまった。

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今日からひさびさに長い休みをとることができた。2週間の休みだ。何をしようかなあ・・と考えている。ようやくPS5が届いて、さっそく今週からぽつぽつとFF16をはじめてみた。だがあまり長い時間できないので、1日1時間くらい、まるで小学生のように隠れながらこそこそとやっている。それはそれでいいが、長い時間集中してやるのはむずかしい。むずかしいというか、気が向かない。

ちょっと振り返ると、ここ2年は日中に集中力を固めてつかっている。あっという間に時間が過ぎる。時間との戦いを続けている。短く集中し、一気に終わらせ、やってみて、また繰り返す。働く時間は減ったが、つかった集中力の合計は増えているような感覚がある。朝か夜は頭をリセットしてなにか本を読む。別の人が話していることが刺激になって、少しずつ考えをまた積み重ねて補強していく。読書はテーピングに近いかもしれない。なにか糸口がないかを常に探している。学ぶしか活きる術はない。それで2年が過ぎた。頭を休めるのがへただなあ・・と思う。

最近は夜更かしをしていない。というより、できなくなっている。遅くても23時に寝て、7時には起きる。今日は珍しく起きている。

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何をするかなあと思っていたら、昔の録音を見つけた。もう何年前だったか・・・Spotifyで聴けるようになっていた。いまじっくり聴きながらこれを書いている。あーちょっと入りが早いな、もっと奥行きがほしいな・・と思いつつ、でもなかなかいい響きだなあ・・とも思う。

記憶が戻ってくる。

2023/11/11

子育ては奇跡の瞬間の連続

息子も少しずつカタコトを話すようになってきた。

ママ、パパ、わんわん、ブーブーなどはよく口にしている。まだ好きなりんごのことはことばにできないけど、りんごが好きだということはわかっている。いやなら首をぶんぶんとふるし、ほしいものならにこにこして走ってくる。半年前にはわかりづらかった意思表示も、すごく大きく、豊かになってきた。意思疎通ができてとてもうれしい。

ものがわかるようになってくると、やりたいこともたくさんでてくる。道をあるけばコスモスににこにこし、おさかなをあっといいながら指差して近づいていき、はとがいればおいかける。わんわんがいればわんわんわんわんと指をさし、おばあちゃんおじいちゃんとすれちがえばにこにこしている。ものがみえて、わかる、というのはうれしいのだなあと思う。

本のなかのことと、実際の世界のことも少しずつつながってきているようだ。本のなかのわんわんもわんわんだし、道を歩いているわんわんもわんわんだ。しかもチワワ、トイプードル、ダックスフンド、ブルドッグ・・などなどわんわんの種類によらずわんわんだいうことがわかるらしい。これはすごい。なんでわかるんだろう・・・。ものがわかる、というのはどこからか教えていないことまで飛ばして何かが起きて、わかることがぽんぽんと増えていくようだ。

電車にのっていればずっと窓の外をみている。電車がすれちがうとうれしいらしい。そして窓から車がみえるとうれしい。なかでも大きな車がみえるとぶーではなく違うことばをだしている。なにか違いがあるらしい。今日はタンクローリーがくるくるしているのをまじまじとみていた。まわるものがすきらしい。動物園に行ってわにさんだよ、といってもわにのことは興味がなく、天井のプロペラのほうを指さして満足げである。おもしろい。

そうかと思えばごはんを床に撒き散らし、飲んだ水を部屋のなかを歩き回りながら吹き出し、にこにこして走り去っていく。まさに愉快犯である。まったく悪気がない。いまのところ反省するという概念はまだ彼のなかにないらしい。面白い。泣くか笑うかしかない。お腹が空くと泣く。いや、ちょっとママに甘えて、おやつをくれーと寄っていく。自分のほうにはこない。しばらくもらえないとふてて泣き始める。そういう段階がある。ただ悪気だとか悲しいとか、そういうのはあまりない気がする。ただ徐々にそういった感情の種類が増えている。

毎日、毎週、どんどんかわっていく。話しかけて、さわって、みて、なにか感じたことがどんどん増えていく。大人の観察が間に合わないくらい、多くのことを学んでいる。気づけば親ふたりの口癖を真似し始めている。洗濯物をもちあげるとき「よいしょ」といえば「んしょ」と真似している。そんなことは真似しなくていいのに・・というものまで真似していく。