2023/11/17

音楽を聴いていない

しばらく、音楽を聴いていない。

2020年になってから、ホールに足を運ぶこともなくなってしまった。

たまにバスに乗ると、Spotifyをつけてぼんやりと最近のヒット曲を流してみる。1人の時間は貴重で、移動中は考えごとに事欠かない。あの仕事をどうしよう、あの相談ごとをどうしよう、家のことをどうしよう。アプリを開きながらニュースを眺めてまた考えごとをする。あれこれ考えていたらオフィスに着く。

聴く集中力がすっかりなくなってしまった。

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今日からひさびさに長い休みをとることができた。2週間の休みだ。何をしようかなあ・・と考えている。ようやくPS5が届いて、さっそく今週からぽつぽつとFF16をはじめてみた。だがあまり長い時間できないので、1日1時間くらい、まるで小学生のように隠れながらこそこそとやっている。それはそれでいいが、長い時間集中してやるのはむずかしい。むずかしいというか、気が向かない。

ちょっと振り返ると、ここ2年は日中に集中力を固めてつかっている。あっという間に時間が過ぎる。時間との戦いを続けている。短く集中し、一気に終わらせ、やってみて、また繰り返す。働く時間は減ったが、つかった集中力の合計は増えているような感覚がある。朝か夜は頭をリセットしてなにか本を読む。別の人が話していることが刺激になって、少しずつ考えをまた積み重ねて補強していく。読書はテーピングに近いかもしれない。なにか糸口がないかを常に探している。学ぶしか活きる術はない。それで2年が過ぎた。頭を休めるのがへただなあ・・と思う。

最近は夜更かしをしていない。というより、できなくなっている。遅くても23時に寝て、7時には起きる。今日は珍しく起きている。

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何をするかなあと思っていたら、昔の録音を見つけた。もう何年前だったか・・・Spotifyで聴けるようになっていた。いまじっくり聴きながらこれを書いている。あーちょっと入りが早いな、もっと奥行きがほしいな・・と思いつつ、でもなかなかいい響きだなあ・・とも思う。

記憶が戻ってくる。

2023/11/11

子育ては奇跡の瞬間の連続

息子も少しずつカタコトを話すようになってきた。

ママ、パパ、わんわん、ブーブーなどはよく口にしている。まだ好きなりんごのことはことばにできないけど、りんごが好きだということはわかっている。いやなら首をぶんぶんとふるし、ほしいものならにこにこして走ってくる。半年前にはわかりづらかった意思表示も、すごく大きく、豊かになってきた。意思疎通ができてとてもうれしい。

ものがわかるようになってくると、やりたいこともたくさんでてくる。道をあるけばコスモスににこにこし、おさかなをあっといいながら指差して近づいていき、はとがいればおいかける。わんわんがいればわんわんわんわんと指をさし、おばあちゃんおじいちゃんとすれちがえばにこにこしている。ものがみえて、わかる、というのはうれしいのだなあと思う。

本のなかのことと、実際の世界のことも少しずつつながってきているようだ。本のなかのわんわんもわんわんだし、道を歩いているわんわんもわんわんだ。しかもチワワ、トイプードル、ダックスフンド、ブルドッグ・・などなどわんわんの種類によらずわんわんだいうことがわかるらしい。これはすごい。なんでわかるんだろう・・・。ものがわかる、というのはどこからか教えていないことまで飛ばして何かが起きて、わかることがぽんぽんと増えていくようだ。

電車にのっていればずっと窓の外をみている。電車がすれちがうとうれしいらしい。そして窓から車がみえるとうれしい。なかでも大きな車がみえるとぶーではなく違うことばをだしている。なにか違いがあるらしい。今日はタンクローリーがくるくるしているのをまじまじとみていた。まわるものがすきらしい。動物園に行ってわにさんだよ、といってもわにのことは興味がなく、天井のプロペラのほうを指さして満足げである。おもしろい。

そうかと思えばごはんを床に撒き散らし、飲んだ水を部屋のなかを歩き回りながら吹き出し、にこにこして走り去っていく。まさに愉快犯である。まったく悪気がない。いまのところ反省するという概念はまだ彼のなかにないらしい。面白い。泣くか笑うかしかない。お腹が空くと泣く。いや、ちょっとママに甘えて、おやつをくれーと寄っていく。自分のほうにはこない。しばらくもらえないとふてて泣き始める。そういう段階がある。ただ悪気だとか悲しいとか、そういうのはあまりない気がする。ただ徐々にそういった感情の種類が増えている。

毎日、毎週、どんどんかわっていく。話しかけて、さわって、みて、なにか感じたことがどんどん増えていく。大人の観察が間に合わないくらい、多くのことを学んでいる。気づけば親ふたりの口癖を真似し始めている。洗濯物をもちあげるとき「よいしょ」といえば「んしょ」と真似している。そんなことは真似しなくていいのに・・というものまで真似していく。

2023/08/09

学ぶほど謙虚になる

多くを知る人ほど、謙虚に見える。

経験あるメンバーと長く仕事をするなかで感じるのは、学び続けてきた人ほど謙虚だということだ。専門性も、技術も、もともとは自分の中ではなく外にあったものである。無から何かを身に着けたのではなく、本やインターネット、あるいは外の何らかの媒介を通じて情報を得ている。調べ、考え、組み立て、理解する。これを重ねていくと、自分は多くを知らないことに気づく。謙虚な学びの習慣のある人は、自然とまわりから信頼される。

これらの人はただ情報を得るだけではなく、自らが可能にするプロセスを経ている。ただ知識をそのまま横に流すのではなく、どのようにすれば自分がそれを扱えるのかを試行錯誤して身につける。情報をそのまま頭にいれるだけでは何も起きない。組み合わせ、考えて知識とし、自ら試し、失敗し、そして実践知として蓄積することで可能に近づく。学びに謙虚であるほど、過去にとらわれず、物事を新しい目で眺め、観察し、そこから新たな学びを得る。

謙虚ではない人は、物事の小さな違いに気づかない。こうに違いない、という過去の目で物事を見る。情報を得ても、実践せず、経験せず、振り返らない人に学びはついてこない。

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組織において、謙虚に学べる人は地味に見える。

地味でよい。組織の価値観として、積み重ねや知識への貢献の素朴さを尊重し、自然と現れる謙虚さを喜べるか。リーダーシップやオーナーシップよりももっと内面的であり、ものを深く考える人に姿勢としてあらわれる、内在した想い。自分はこれらを汲み上げられる人でありたい。

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先人に感謝し、学びを還元する組織でありたい。

2023/05/07

経験からしか身をもった話はできない

プログラムを少しずつ書いて試すことは、多くの発見をもたらしてくれる。エディタがどう動くのか、エラーはどうでるのか、補助ツールはどう動くのか、どれくらいさくさくと動くのか、この言語はどういう特徴をもっているのか、どういう作りやすさがあるのか。ただ読んだだけではなく、自分の手元で動かすことで多くの感覚が開き、教えてくれる。

やってみたことがないものを話すのは難しい。やってみたことがないものは、自分の感覚からくる言葉に変えることができない。

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最近息子が歩きはじめた。まだ5,6歩進むのがやっとだけれど、歩くのが楽しいらしく、にこにことしている。うまく受け身をとれずに顎を床にぶつけて唇を切ってしまったり、ひざをあちこちにぶつけたりと怪我も多い。けれど歩けるのが嬉しくて、にこにこして歩いている。

大人は歩けることの嬉しさを普段感じるだろうか?散歩をして気分転換をする日はあれど、歩くたびににこにことすることはない。

子供が歩けるようになるのと同じように、新しいことをやってみるのは常に楽しい。やったことのないストレッチをしてみたり、いったことのないお店に行ってみたり、乗ったことのない車に乗ってみたり。その嬉しさの振幅は年々増えているだろうか?それとも減っているだろうか?

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それが新しいものなのか、変わらないものなのかを感じるのもまた個に依存する。全く同じことをやっているようにみえても、全く同じ日はない。同じような機能を作っているように見えても、別のチームなら別の課題であり別の面白さがある。同じように歩いているように見えても、全く同じ散歩はない。

60年後に自分はものを新しいと思えているだろうかと思った一日だった。

2023/01/31

東急本店の思い出

渋谷の東急百貨店本店が今日閉店した。仕事終わりについ足を伸ばし、最終日の店内を見てきた。普段はがらんと空いているのに、今日はまるでこの百貨店が今日オープンしたてなのかと思えるほどにお客さんでいっぱいだった。

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自分が上京してからというもの、渋谷に行くことが多かった。特に丸善ジュンク堂ができたからは、暇があれば本を探しに足を運んでいた。勤めはじめて渋谷が拠点になってからというもの、もっとも通った店である。

東急本店というのは不思議な場所だ。賑やかな渋谷とは違う、静かな店である。混んでいるのを見たことがない。いけば7階の丸善ジュンク堂で本を物色し、8階のDEMIでハンバーグを食べたり、永坂更科で蕎麦を食べたりした。8階はBunkamuraとエスカレーターでつながっており、お洒落をしたお姉様方や連れの子どもたち、または品のよい年配の方々がよく歩いていた。

丸善ジュンク堂ではよく本を買った。うちにある本のほとんどはそこで買った本である。ハヤカワepiを右から左へ買い漁り、文庫版の古典を読み漁り、ウェブやデータ関連の技術書をめくり、目ぼしい組織運営の書籍があれば手にとってよさそうならひとまず買っていった。いまも机の脇には10冊ほどの積読本がつまれており、これらもすべてここで買ったものだ。ここ2,3年はオフィスに行く機会も前より減ったので、渋谷にいく機会があれば昼休みにここに立ち寄り、そのときどき仕事での考え事に壁打ちしてくれる本を選んでいた。電子書籍も使うが、僕が物理本や本屋が好きなのはこの店の影響がとても大きい。

ここの本屋はとにかく古典がたくさんおいてあるのが良い。もちろん話題の書もあるが、むしろ古典をちゃんと棚に並べてくれており、かつ平置きされている本もまたよく練られている。同じ著書の別の出版社の本があれば、それもまた別の区画にまとめて時期ごとに並べられており、趣向の変化を感じることもよくあった。

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ここ最近は家族でいくこともふえた。渋谷にあって、車で行きやすく、ベビーカーを押しやすい店というのはここくらいしかない。

屋上でアネモネの苗やチューリップの球根を買ったり、6階のファミリアでベビー服をのぞきつつ手が届かないような値段のお皿を眺める。年末にいけば、正月にしかつかわないであろう重箱が売っていたりして面白い。ベビーコーナーもあり、授乳室にもよくお世話になった。地下では一保堂のほうじ茶をよく買っていた。伊藤園の茶寮でも甘味を食べつつ休むこともあった。来るたびに魚力は必ずチェックして、値ごろなものがないかみていた。ぶり、マグロ、いかの刺し身などをあまり高くないものを探した。明治屋でタカキベーカリーのパンと、なにか珍しい調味料があれば買ってみていた。出店でパエリアやたこ焼きを買うこともあった。焼き鳥もたまに買った。さあ帰るかと思ったら銀座若菜でなにかしら漬物を1つお買い上げする、というのが決まりのパターンだった。新館よりではなく本館側に車を停めるとここの前を通るのである。

何をするにも静かで、盛り上がりとは対局にある店だった。なぜ続いているんだろう、やはり松濤の常連客がたくさん買っているからじゃないかねえなんて話をしながら、自分たち家族もすっかりファンになっていた。最初大学のころに本屋目当てに訪れてから、まさかこんなに足繁く通う場所になるとはなあと思う。

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建て替えられ、新しいビルになるとガラスばりの、おおきなビルになる。きっと便利になるし、時流にあったテイストになるのだろうなあと予想している。でも少し、この東急本店の残す、昭和っぽい雰囲気がなくなるのはやはり寂しいなあと思うのが本心である。古びているし、明るくもないし、人も来ていないし、しかし落ち着いている。そういう場所はどんどん、人の集まる場所からはなくなっていくのだなあと、当たり前のことを思いながらやはり少し寂しいなあと思ってしまう。そういう魅力のあるお店だった。

店員のみなさま、運営に携わられていたみなさま、大変お疲れ様でした。お世話になりました。

2023/01/30

Mac miniを買った

Mac miniを買った。リビング用である。

仕事は自室でしている。自室には仕事用のMacBook Proと、プライベート用のWindows PCがある。最近は息子がリビングにいるので、リビングにいる時間が長い。またテレビにつなぎながら家族であれこれみるにはPCがあると勝手がよい。

「あの店どんな雰囲気だろうねー」とか「こういう棚ほしいよねー」と話しながら、画像を見せられると話もしやすい。

自分がはじめてさわったPCは自宅にあったWindows 95だった。その前でいうとワープロがうちにあり、それでタイピングして遊んだり、ソリティアをして遊んだりしていた。なんという名前のマシンだったのかは覚えていないけれど、その時からタイピングするのは好きだった。もともとは父のマシンだったはずだが、自分があれこれ遊んでいるうちに家族みなで触るようになった。一度フロッピーディスクを出来心でフォーマットしてしまったことがあり(「このフォーマットってなんだろう・・?」と押してみたのであった)、住所録を消すという事件を起こしたりした。

最近買ったMac miniも、いずれは息子のおもちゃになるのかなーと思っている。リビングなり、見えるところで使えるし、ちょうどよいのではなかろうか。Mac miniははじめて買ったのだけど、小さいし、手頃な価格だし、端子もあれこれあって便利である。

タブレッドやスマホも便利なのだけど、やはりなにかしら作るとなるとパソコンを使えるとなにかと楽だ。自分は文字を打つのが明らかにキーボードがあったほうが楽なので、すぐにパソコンを開いてしまう。いずれタイピングをするのはごく少数の人になってしまうのかもしれないが、まだしばらくはキーボードは残るのではないか・・と思う。まあでも個人のブログなんかは音声で入力したほうが早そうである。

自分がインターネットに触れたときのように、同じように喜びを感じるのだろうかと想像している。もしそうなれば嬉しい。

2023/01/28

エレベーター

ベビーカーを押して移動するようになると、エレベーターによく乗るようになった。

休みの日はもっぱら買い物やらご飯やらで外にでる。駅の近くのスポットにいくにはやはり電車が楽だ。二子玉川や、都心のほうにいくときはたいてい電車である。

一人で動く分には何も気にすることはない。階段をえいやとくだり、電車に飛び込むようにのっても問題はない。しかしベビーカーを押しているとなるとまったく別世界である。まずエレベーターの場所を把握する。並んでいれば待つ。もう一度改札からホーム行きのエレベーターに乗る。またそこでも待つ。電車も車両によってベビーカースペースがあることもあれば、表示があってもあくまで優先席しかなかったりする。「この場合はどうする」の分岐がとても多い。

また、時間帯にもよって混み具合も変わる。平日の朝と夕方は通勤で混み、休日の昼過ぎもやや混む。平日朝は都心方向の場合は混むが、逆はそうでもない。そういう具合に方向と時間帯の組み合わせで混み具合が変わる。また休日は比較的後方車両が空いている。

そこまで把握してもなお、時間どおりには動けない。まあそういうものだと思うのがよさそうである。はじめておりる駅の場合はなおさらで、そもそもエレベーターの場所を調べることからはじまる。

ただどの駅に行っても、ちゃんとエレベーターがあるのはありがたい。そしてどの駅にいっても、足腰が不自由だったり、わたしたち同様にベビーカーを押している方々がいる。「ああ、お互いさまですね」といった具合にドアをあけてくれる。そういうちょっとした優しさがありがたい。

「あーここでもうひとり乗ったらきつそうかな」と思えば、ひとりは階段で、ひとりはベビーカーとともにエレベーターへ、という具合の調整もされる。「ちょっと俺歩いていくわ」という声掛けがあちらこちらでされる。なれたものである。ある種のプロトコルともいえるかもしれない。

そういうやりとりも日常になってきたけれど、一年前はまったくそんなやりとりがあるとは気づきもしなかったものである。見ているようで、見ていないものがたくさんある。

2023/01/21

「禅と日本文化」を読んだ

最近はよく風呂に入るときに本を読んでいる。長くても30分ほど。この本はそこで読み、1ヶ月ほどかかってしまった。

タイトルのとおり、禅の観点から日本文化について語られている本である。書店の戸棚にあるのをみて、なんとなく惹かれて手にとってみたのがきっかけである。

日本における他の宗教に関しては触れられている部分は少ない。しかし、自然をどう感じるか、武芸、茶に関しての考察については専門外の自分でも十分に楽しめる内容だった。そもそももとが洋書で、出版されたのが1950年代。戦後、英語圏から日本の文化を考察する入り口として、この本があったことの影響は大きいだろうと感じた。「菊と刀」よりもより具体的であり、かつ欧州の詩や文学との比較も豊富だし、より日本文化と禅についてミステリアスな印象を与えたのだろうなあ・・と想像しながら読むと楽しい書籍だった。