2026/05/14

少なくても良いので、多くを生む

ついつい多くの仕事をすると満足してしまいがちである。ほどよい疲れ、やった感、高揚感・・。

しかしながら、その後それらがうまい効果を生み出したのか、は目をつぶりがちである。あの文書はうまく読まれたのか、あの施策はうまく行ったのか、あの変更は結局よかったのだろうか・・。

シンプルだが難しい。物量をたくさん生むと、感覚的に満足しがちである。そしてものを生めないと焦るのもまた人間である。そしてなにかがうまくいかないリスクも高まるように思える。タイパも下がったように思われる。それに抗わなければならない。

だがこれに抗う力をつけるには、やはり何度も何かを試して失敗しなければいけない。そうしなければ適度な物量の減らし方が見えない。なんどもなんども、やはりやってみてすぐ戻して、そういうことを続けてようやく質が少しあがる。

たまにはNo AI Dayが必要なのかもしれない。

2026/05/12

新聞を読んでいる

ここ1年半ほど、紙の新聞を取っている。朝食前、子どもたちに踏まれながらもなんとか読むようにしている。

日々必要な情報の集約やリサーチについてのpullはAIエージェントがやってくれる。それでも、編集された紙面が毎朝くるというのは気持ちがいい。レコメンドされても自分が読まなかったであろう記事も多く載っているが、それはそれでよいものとしている。

日経を読んでいるのだが、特にFTの政治経済系の記事がよい。全然自分が知らなかった情報を、日々考える人がいるのだという味わいがある。裏表紙で収まる社会面も地味に助かっている。朝雑多にスマホでみると疲れるのだが、開けばわかるならそのほうが認知負荷が低い。

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AI Token利用量脳になっているので、自分が情報を読み砕くときにもTokenを消費している気持ちになっている。エネルギー源は糖分や睡眠であり、夕方になるとパフォーマンスが落ちてくる。仕事に必要なものごとにエネルギーを使いたいため、無駄な情報が入ってくるのをなるべく抑えたい。その点、雑多なものに注意が取られる移動中のスマホよりも、紙のほうが都合が良い。

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情報密度が高く、静的で、整理されたもの。それでいて自分の認知バイアスを知り、減らすものがほしい。理想は複数紙を読むことだろうが、なかなかそれも時間性約上、難しい。事実と解釈が分離されているものであれば、解釈を論考しやすい。(ただし事実が確証バイアスによって収集されている場合も多いことには留意する必要がある。)理想に完全に合致するものは存在せず、とはいえ一定の質を保った入力が常に必要。

2026/03/03

イン・ザ・メガチャーチ

新宿の紀伊國屋でふらっと手に取った。前からタイトルは知っていて、なんとなく気になっていた本だった。

読み終えて、怖かった、というのが最初に出てくる感想である。

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いわゆる推し活を題材にした小説なのだが、推し活そのものを肯定も否定もしていない。そこが怖い。誰かを好きになる、応援したいと思う、その気持ちは純粋で、読んでいて共感できる。寄り添いたいという感情に嘘はない。

ただ、その気持ちを掬い上げる仕組みがよくできている。感情が経済性と噛み合うようにデザインされていて、人が夢中になればなるほど回り続ける構造がある。仕組みとしての優秀さがわかる。わかるからこそ怖い。

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もう一層怖いのは、わかっていても戻れないということだ。小説の中の人物たちも、どこかでおかしいと薄々感じている。でも止まれない。楽しさと怖さは同じ構造の裏表で、どちら側に見えるかは人によって違う。同じ場所にいても、ある人には居場所で、ある人には沼である。

誰かに寄り添いたいという善意が、経済性とともにうねって、気がつけば誰も望んでいなかった場所に着地する。一人一人の気持ちは間違っていないのに、全体としておかしなことになっている。そういう構造を、この小説は淡々と描いている。

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何かにはまるのはアイドルに限った話ではない。育児、仕事、趣味、なんでもそうだ。はまっているとき、そこには合理的なだけではない理由がある。あるいは、自分で理由をつくっている。

厄介なのは、その理由が自分の頭で100%考えたものだと思えてしまうことだ。でも実はそうではない、ということがしばしばある。自分の意志で選んでいるつもりが、仕組みに乗っている。誰にでも当てはまる話で、違うのはその度合いだけである。以前読んだショシャナ・ズボフの『監視資本主義』にも似た怖さがあった。あちらはテクノロジーの側から描いていたが、この小説はもっと手触りのある、感情の側からそれを見せてくる。