2026/05/12

新聞を読んでいる

ここ1年半ほど、紙の新聞を取っている。朝食前、子どもたちに踏まれながらもなんとか読むようにしている。

日々必要な情報の集約やリサーチについてのpullはAIエージェントがやってくれる。それでも、編集された紙面が毎朝くるというのは気持ちがいい。レコメンドされても自分が読まなかったであろう記事も多く載っているが、それはそれでよいものとしている。

日経を読んでいるのだが、特にFTの政治経済系の記事がよい。全然自分が知らなかった情報を、日々考える人がいるのだという味わいがある。裏表紙で収まる社会面も地味に助かっている。朝雑多にスマホでみると疲れるのだが、開けばわかるならそのほうが認知負荷が低い。

--

AI Token利用量脳になっているので、自分が情報を読み砕くときにもTokenを消費している気持ちになっている。エネルギー源は糖分や睡眠であり、夕方になるとパフォーマンスが落ちてくる。仕事に必要なものごとにエネルギーを使いたいため、無駄な情報が入ってくるのをなるべく抑えたい。その点、雑多なものに注意が取られる移動中のスマホよりも、紙のほうが都合が良い。

--

情報密度が高く、静的で、整理されたもの。それでいて自分の認知バイアスを知り、減らすものがほしい。理想は複数紙を読むことだろうが、なかなかそれも時間性約上、難しい。事実と解釈が分離されているものであれば、解釈を論考しやすい。(ただし事実が確証バイアスによって収集されている場合も多いことには留意する必要がある。)理想に完全に合致するものは存在せず、とはいえ一定の質を保った入力が常に必要。

2026/03/03

イン・ザ・メガチャーチ

新宿の紀伊國屋でふらっと手に取った。前からタイトルは知っていて、なんとなく気になっていた本だった。

読み終えて、怖かった、というのが最初に出てくる感想である。

---

いわゆる推し活を題材にした小説なのだが、推し活そのものを肯定も否定もしていない。そこが怖い。誰かを好きになる、応援したいと思う、その気持ちは純粋で、読んでいて共感できる。寄り添いたいという感情に嘘はない。

ただ、その気持ちを掬い上げる仕組みがよくできている。感情が経済性と噛み合うようにデザインされていて、人が夢中になればなるほど回り続ける構造がある。仕組みとしての優秀さがわかる。わかるからこそ怖い。

---

もう一層怖いのは、わかっていても戻れないということだ。小説の中の人物たちも、どこかでおかしいと薄々感じている。でも止まれない。楽しさと怖さは同じ構造の裏表で、どちら側に見えるかは人によって違う。同じ場所にいても、ある人には居場所で、ある人には沼である。

誰かに寄り添いたいという善意が、経済性とともにうねって、気がつけば誰も望んでいなかった場所に着地する。一人一人の気持ちは間違っていないのに、全体としておかしなことになっている。そういう構造を、この小説は淡々と描いている。

---

何かにはまるのはアイドルに限った話ではない。育児、仕事、趣味、なんでもそうだ。はまっているとき、そこには合理的なだけではない理由がある。あるいは、自分で理由をつくっている。

厄介なのは、その理由が自分の頭で100%考えたものだと思えてしまうことだ。でも実はそうではない、ということがしばしばある。自分の意志で選んでいるつもりが、仕組みに乗っている。誰にでも当てはまる話で、違うのはその度合いだけである。以前読んだショシャナ・ズボフの『監視資本主義』にも似た怖さがあった。あちらはテクノロジーの側から描いていたが、この小説はもっと手触りのある、感情の側からそれを見せてくる。

2025/09/26

自ら考え、自ら動く

 「脱力と余裕である」みたいなことを書いていたらあっという間に半年経ってしまった。

仕事でも、プライベートでも、今年は密度がいつに増して濃く、自由にする時間がぐっと減っている。人と会う機会も日中になんとか作らねば難しく、しばらく離れてしまっている人もたくさんいる(こっそりと見ている人がいれば、他愛もないメッセージでももらえるとうれしい)。カンファレンスや勉強会の場であればたまたま会える機会が生まれる人はいるものの、そうでもなければ対面で会うことも減ってしまった。

--

目まぐるしい一年である。もう年末が見えてきた。

実行することで、何かを噛み締めては学び、合間になんとかインプットし、ひねり、考え、やってみて、また試すのを繰り返している。作り、使い、つなぎ、崩し、壊し、練り直し、また悩む。すべての仕組みについて一歩引いて、踏み込んで、もっと離れて、エージェントにきいて、また踏み込んで、離れて、調整して、試して、デプロイするのを繰り返している。

学ぶことと実行することが、前の一年よりも近くなった。今年はまた違った仕事を重ねていて、これまで構造として学んだことを、さらに別のエリアで重ねて仮説検証する、というのを繰り返している。開発組織ではこうだったが、営業組織だとどうだろうか。マーケティングではこうだが、別業界ならどうだろうか。自社ではこうだが他社ではどうか。全部の材料が手元に揃うことはなく、想像して、他の人達の経験を片鱗から推測しながら、またなにかを試す。

周囲のスピードもあがっており、世界のスピードもまたあがっており、とどまることより進むことを選択する人たちが周りに増えていくように見える。とどまることは退くことであり、とどまることは諦めることである。ただ、ふと我に返ったときに何を戦っているのかと思うこともあり、それはまた活力が枯れている瞬間である。

活力が枯れたとき、自分はインプットすることで生き返る。行き止まりは、手札不足。想像の範囲が枯れたときは、手段を考えることすら堂々巡りになっていく。なにかをいれると、変化がおこり、しょうもない仮説を叩いていけば、少しずつ核心に近づいていく。同じ業界、同じ組織、同じやり方にそれはなく、遠い国、遠い文化、遠い組織、遠い価値観のなかに、実は似たものがある。それそのものは全く似ているようにみえなくとも、なんらかの構造的な類似性を見出す眼が養われていく。それを学ぶ力というのだと感じている。

そうした広がりは実行による経験によって培われなければ実行可能な環境にならない。体験的な学びによって、速いシステムに植え付けられる。それにより、単位時間で到達可能な選択肢が増える。

--

四六時中AIと向き合っている。これなくして仕事はもうできないが、常に自分を侵食してもいる。自分の子どもたちが仕事をする未来に、何を考え、実行するのか。その未来に自分はどうあるか。そこからみれば、まだ原始的で初期的なコンセプトであるAIが、振り返ったときにどんな変化をもたらしたと自分は話すのか。未来から逆算して毎時を過ごしている。