2018/07/22

弱くてニューゲーム

今年で年齢的な節目を迎えたこともあり、改めて時間の過ごし方を考えている。次の10年でどうありたいのか。何を10年後に知り、やっていたいのか。前の10年では何を知り、何をやってきたのか。誰と仕事をし、何に真剣に取り組んできたか。1つ1つの事柄を振り返ってはおいていき、自分の何につながっているのかをゆっくりと見返す。10年前、初めてプログラムを書いてお金をもらった。思えばこの10年はその仕事を自分に手繰り寄せて、揉まれながら馴染ませ、血肉とする期間だった。

プログラマとして身につけてきたことはなにか。プログラムを書くことそれ自体が思い浮かぶかもしれないが、それだけではない。実際には、自分の知らないことを知り、楽しいでも苦しいでもなくただひたすらに繰り返し、説明できない義務感や使命感のようなものをもって打ち返すことをしてきた。仕事することそれ自体は大変であり時間を使うものであり、楽しかろうが面倒だろうがやるという、諦めともがむしゃらともいえず、ただひたすらにやるしかない。何かを作るというのはいつも難しい。自分のやる仕事は、何かこれまで同じ方法ではやっていなかったことや、これまでのやりかたがうまくなかったものを優先的に取り組んでいる。結果として回り道であったとしても、組織として個人として、どこかの時合で対峙しなければ問題がある。気がつけばそれはソフトウェアだけではなく、他の部分にも手を広げてやらなければならず、ただひたすらに黙々と問題を解いていく。平たく言えばそんなことを続けてきた。

とまあ文字だけで書くと綺麗に見える。ここ数年、自分ではやらない仕事を効率のために多く決めてきた。1日に使える時間は限られていて、そのなかで最大限価値を出したい。そのために優先順位を決める。優先順位を決めることは、やらないことを決めることである。あれもこれも望まれるし、どれも魅力的に思える。そういう場合であっても、やらないことを決めなければいけない。組織でも個人でも、それぞれに能動的に決めなければならない。時に、同じ組織にいればいるほど、自分の得意な物事は自分に集まってきて、効率的に捌いていける。信頼も重ねられて、大きくかつ多くの物事を達成できるようになっていく。こうして個人も組織もリスクヘッジしつつ、効率を上げていく。効率を上げたことは個人として成長し、何かをこなせている結果でもある。明日、今日よりも何かをできるようになっていることは、一日を過ごす上でとても大事だ。今思うのは、効率ではなく、根本的な質とも言えるものを個人として長期的にあげるために、なにか質的な立ち戻りが必要なのではないかということだ。

しかしながら日々思うのは、外の多くの物事や作られたものをみて思うのは、自分のできることの小ささである。ソフトウェアだけじゃなく、どうやってこの物語を構築したのだろうと思わせられる小説や、どのように着想を得て組み上げたのだろうと感じさせられる音楽や、どんな練習を重ねてきたかも想像できない演奏をみるとき、自分のできることの小ささを知るのである。もちろんソフトウェアそのものについて驚きが少なくなったわけではなく、むしろ年々自分に知識が付けばこそ、広い分野のプロダクトについて愉しみを見いだし、多くを学び取れるようになった。特に大きなソフトウェアをみるとどうしても純粋にそれ自体ではない人・モノ・金・情報の背景も含んで想像してしまい、その中にいる個人についての度合いが感じづらくなってしまう。それらも当然面白く、魅力を感じるから今もそういう領域で仕事をしている。とはいえだからこそ、今一度ものをつくるということ自体での次元を上げたいと思っている。こう書きながらも都合よく忘れて、日々相変わらず黙々と価値を生み出す仕事をしながら給料をもらう。その両面性を抱えて働いている。

どんな職業であれ、続けていくことは難しい。知らないことを知るだけではなく、なにか新しいものを生み出し、自分も変わっていかなければならない。得意なことだけをやり、効率的なことだけをやっていった自分の未来はどうなっていくのか。新しいことを重ねていかなければ、どうなってしまうのか。きっと弱くてニューゲームをしてでも、なにか質的な変化を起こすべきタイミングというのがあるのだ。10年前は仕事は積み上げていくものだと思っていた。でも今はそれと少し異なる、複数の螺旋のようなものだと考えるようになった。行ったり来たりしながら上がっていき、なおかつたまに他の螺旋に移りながら強くなり、多様性と強さを身に着けていく必要がある。そのほうがきっと働くというのは面白いと思うのだ。

2018/07/08

万引き家族を観てきた

昨晩、是枝監督の最新作、万引き家族をみてきた。映画館で映画をみるのは年に数回なのだけど、「そして父になる」をみてから是枝監督の作品は見に行こうと決めている。

あらすじはこちら。 http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/about.html

観終わってまずこみ上げてきたのは家族それぞれの生き方、家族の絆のあり方、血ではない家族のあり方、貧困と愛情、人と人との関係のあり方・・それらが重なったつながりについての切ないだけでは言い切れない多層的な感情だった。とても言葉にするのが難しい。映画の中では実際の人生と同じように、何かに思いやりをもち、何かしらに愛情があり、傍からみるとなぜそう考えているのかわからない、見えないものがたくさんあった。現実では自分はこういう家族の形にあったことがないし、それでも想像はできているとさえ思っていたのに、徐々に物語が進んでいくと徐々にそれこそ心が震える。自分が見えない、見ようとしていなかったものを伝えられた映画だった。

翔太とゆりは今後どういう人生を歩むのだろうかとか、治はしょうもないけどなんて憎めない人なのだろうとか、おばあさんはなぜああいう家を作っていったんだろうかとか。2時間では語られないところの余韻が今でも残っている。見えない花火、懐かしいスイミー。散りばめられたシーンもすごく印象に残る。夏のそうめんと、とうもろこし。コロッケとカップ麺。麸と白菜だらけの鍋。ご飯のときっていうのはそれだけでいきいきとしていた。

このタイミングで今見に行けてよかったなあと思う映画でした。