2025/09/26

自ら考え、自ら動く

 「脱力と余裕である」みたいなことを書いていたらあっという間に半年経ってしまった。

仕事でも、プライベートでも、今年は密度がいつに増して濃く、自由にする時間がぐっと減っている。人と会う機会も日中になんとか作らねば難しく、しばらく離れてしまっている人もたくさんいる(こっそりと見ている人がいれば、他愛もないメッセージでももらえるとうれしい)。カンファレンスや勉強会の場であればたまたま会える機会が生まれる人はいるものの、そうでもなければ対面で会うことも減ってしまった。

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目まぐるしい一年である。もう年末が見えてきた。

実行することで、何かを噛み締めては学び、合間になんとかインプットし、ひねり、考え、やってみて、また試すのを繰り返している。作り、使い、つなぎ、崩し、壊し、練り直し、また悩む。すべての仕組みについて一歩引いて、踏み込んで、もっと離れて、エージェントにきいて、また踏み込んで、離れて、調整して、試して、デプロイするのを繰り返している。

学ぶことと実行することが、前の一年よりも近くなった。今年はまた違った仕事を重ねていて、これまで構造として学んだことを、さらに別のエリアで重ねて仮説検証する、というのを繰り返している。開発組織ではこうだったが、営業組織だとどうだろうか。マーケティングではこうだが、別業界ならどうだろうか。自社ではこうだが他社ではどうか。全部の材料が手元に揃うことはなく、想像して、他の人達の経験を片鱗から推測しながら、またなにかを試す。

周囲のスピードもあがっており、世界のスピードもまたあがっており、とどまることより進むことを選択する人たちが周りに増えていくように見える。とどまることは退くことであり、とどまることは諦めることである。ただ、ふと我に返ったときに何を戦っているのかと思うこともあり、それはまた活力が枯れている瞬間である。

活力が枯れたとき、自分はインプットすることで生き返る。行き止まりは、手札不足。想像の範囲が枯れたときは、手段を考えることすら堂々巡りになっていく。なにかをいれると、変化がおこり、しょうもない仮説を叩いていけば、少しずつ核心に近づいていく。同じ業界、同じ組織、同じやり方にそれはなく、遠い国、遠い文化、遠い組織、遠い価値観のなかに、実は似たものがある。それそのものは全く似ているようにみえなくとも、なんらかの構造的な類似性を見出す眼が養われていく。それを学ぶ力というのだと感じている。

そうした広がりは実行による経験によって培われなければ実行可能な環境にならない。体験的な学びによって、速いシステムに植え付けられる。それにより、単位時間で到達可能な選択肢が増える。

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四六時中AIと向き合っている。これなくして仕事はもうできないが、常に自分を侵食してもいる。自分の子どもたちが仕事をする未来に、何を考え、実行するのか。その未来に自分はどうあるか。そこからみれば、まだ原始的で初期的なコンセプトであるAIが、振り返ったときにどんな変化をもたらしたと自分は話すのか。未来から逆算して毎時を過ごしている。


2025/03/30

密度

最近仕事もプライベートも含めた密度が濃い。

「濃い」というのは単純にみればよさそうではあるが、裏返すと時間がないように思う。AIしかり、時間密度をあげることをそれ以前から淡々とやってきた結果、5分10分でできることが格段に増えている。特に仕事に関して言えば、10年前と比べると隔世の感がある。

「考える」行いに対する密度が上がっている。最近は朝、紙の新聞を読んでおり、読みながら別の仕事のことやら生活のことやらを考えている。表の密度と裏の密度があるなら、どちらも濃い。それまでの経験をもとに新たな情報を練りこみ、さらに解釈を重ねていく。ひたすら頭にいれるときもあれば、ただ話して出すだけのこともある。家族、同僚など、毎日話してはあれこれ考える。話しながら考えていることも多々ある。話しながら関心が移ってしまうこともありよくない。ともあれ話す以上に考えるのは早いものである。

密度が上がればただ良いのか、というとそうではない。結果をよくすることは必要だが、常に短距離走をしてながら北極星を目指していては、やはり無理が来てしまう。この春のテーマは脱力と、余裕である。

2025/03/17

言語を覚えるということ

先週は言語処理学会に初めて参加してきた。言語を学び、言語を深く知り、言語を計算したいと考える人達に囲まれてとてもよい時間を過ごした。LLMの中身を科学しようとする取り組みもさることながら、人が言語を学ぶことと言語モデルを対比したセッションなどもあり、好奇心が高まった。運営のみなさまどうもありがとうございました。

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日々、子どもの言葉を覚えるスピードに驚かされる。今日は「ぐりとぐら」を読んでいたら、たきぎって何、ときいてきてくれた。日々、「なんでこれは動いているの?」とか「なんでこのお魚は赤いの?」とか、理由があるようなないようなものについてもなんでなんでときいてくれるようになってきた。言葉を覚えるだけではなく、その裏にある意味を感覚的に知り、理解しようという段階になってきているようだ。

ただ意味がわかったようでも、全然わかっていないこともたびたびある。あるいは敢えて無視をして、いたずらをして親の注意を惹こうとしてきたりする。ああ、そのおもちゃを投げるのはやめてといったのに・・というようなことを毎日のようにやっている。わかってるはずなだけどなあ、とこちらは思うのだが、すでに向こうは意味をわかっていて、敢えてわからないふりをしていたずらをしていると気づくのにはそうは時間がかからなかった。親の表情や反応をみて遊んでいるのだから、なんと子どもというのは賢いのだろう、と思う。

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日々本を読んで、文を書いて、話して、聴いて、多くのことを言葉を通じて考えている。ちょっと言葉に依存しすぎかな、離れなければと思うが、いまもまた文字を打っている。

子どものように言葉を楽しむ、というのは人にとってなんて楽しいことなのだろうと思うのだった。