「脱力と余裕である」みたいなことを書いていたらあっという間に半年経ってしまった。
仕事でも、プライベートでも、今年は密度がいつに増して濃く、自由にする時間がぐっと減っている。人と会う機会も日中になんとか作らねば難しく、しばらく離れてしまっている人もたくさんいる(こっそりと見ている人がいれば、他愛もないメッセージでももらえるとうれしい)。カンファレンスや勉強会の場であればたまたま会える機会が生まれる人はいるものの、そうでもなければ対面で会うことも減ってしまった。
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目まぐるしい一年である。もう年末が見えてきた。
実行することで、何かを噛み締めては学び、合間になんとかインプットし、ひねり、考え、やってみて、また試すのを繰り返している。作り、使い、つなぎ、崩し、壊し、練り直し、また悩む。すべての仕組みについて一歩引いて、踏み込んで、もっと離れて、エージェントにきいて、また踏み込んで、離れて、調整して、試して、デプロイするのを繰り返している。
学ぶことと実行することが、前の一年よりも近くなった。今年はまた違った仕事を重ねていて、これまで構造として学んだことを、さらに別のエリアで重ねて仮説検証する、というのを繰り返している。開発組織ではこうだったが、営業組織だとどうだろうか。マーケティングではこうだが、別業界ならどうだろうか。自社ではこうだが他社ではどうか。全部の材料が手元に揃うことはなく、想像して、他の人達の経験を片鱗から推測しながら、またなにかを試す。
周囲のスピードもあがっており、世界のスピードもまたあがっており、とどまることより進むことを選択する人たちが周りに増えていくように見える。とどまることは退くことであり、とどまることは諦めることである。ただ、ふと我に返ったときに何を戦っているのかと思うこともあり、それはまた活力が枯れている瞬間である。
活力が枯れたとき、自分はインプットすることで生き返る。行き止まりは、手札不足。想像の範囲が枯れたときは、手段を考えることすら堂々巡りになっていく。なにかをいれると、変化がおこり、しょうもない仮説を叩いていけば、少しずつ核心に近づいていく。同じ業界、同じ組織、同じやり方にそれはなく、遠い国、遠い文化、遠い組織、遠い価値観のなかに、実は似たものがある。それそのものは全く似ているようにみえなくとも、なんらかの構造的な類似性を見出す眼が養われていく。それを学ぶ力というのだと感じている。
そうした広がりは実行による経験によって培われなければ実行可能な環境にならない。体験的な学びによって、速いシステムに植え付けられる。それにより、単位時間で到達可能な選択肢が増える。
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四六時中AIと向き合っている。これなくして仕事はもうできないが、常に自分を侵食してもいる。自分の子どもたちが仕事をする未来に、何を考え、実行するのか。その未来に自分はどうあるか。そこからみれば、まだ原始的で初期的なコンセプトであるAIが、振り返ったときにどんな変化をもたらしたと自分は話すのか。未来から逆算して毎時を過ごしている。