2012年8月26日日曜日

「データビジュアライゼーションの美」が面白い


   


デビッド・マキャンドレス 「データビジュアライゼーションの美」 | Video on TED.com http://www.ted.com/talks/lang/ja/david_mccandless_the_beauty_of_data_visualization.html



TEDのビデオを見ていました。 

毎日データに触っているのだけれど、僕は視覚化に疎いです。

視覚化すると気がつくことがよくあります。単純にExcelでデータを並べてグラフにしただけで傾向がつかめた、とかは普段からよくあることなのではないかと思います。

このビデオでプレゼンをしているデビッド・マキャンドレスさんはもともとプログラマで、今はData Journalistをしているそう。気になったところを箇条書きで紹介。


  • "Data is the new oil."ならぬ、"Data is the new soil." 
  • 人間は視覚から取り込んだ情報を「言葉」「概念」といった領域に落としこんでいく。
  • 人間は視覚からのほうが他の知覚よりも情報を得るスピードが早く、毎日視覚からデータを多く得ている。 
  • ヴィジュアルを作ることは、知識を凝縮するということ。 
  • データは相対的なものの見方をしないと誤った印象を与えてしまう。 


ネットに情報が詰まっていて、関連を持って保持されているということはやっぱり面白いことだよな、と改めて思った次第です。ビデオを見ていただければ、そのスライドから色々伝わるかと思います。

可能性に打ちひしがれていてもどうしようもない

「私には可能性がたくさんある」というのは決して良い面ばかりではない。

今日、フットサルをしてきた。久々にしっかりと運動をした。高校まではずっと部活でサッカーをやっていたが、大学に入ってからはギターばかり弾いていたのでほとんどサッカーをしていなかった。こうして久々にサッカーをしてみると楽しいものだ。東京は暑いが、サッカーの面白みはどこでやっても変わらない。球を蹴るのが純粋に楽しい。

さっきご飯を食べながら、キルケゴールの「死に至る病」を読み直していた。重い題名だが、死というよりは絶望について述べられている本だ。ここの本の文脈では絶望というのは、キリスト教で言うところの神様が超えられるもので、一般人の我々には常に存在しているものだ。

「死に至る病」ではざっくり言うと、「絶望と向き合わないと絶望を抜けられないのだよ」という示唆を与えてくれる。

ひとは何もしなければ可能性に満ち溢れている、と僕はよく感じていた。制限されないからだ。中学生の頃だろうか、僕自身が何者かになろうとすることが、かえって自分を狭めてしまうのではないだろうかという念に駆られていた。「プロサッカー選手になる」でも、「大学教授になる」でも、ましてやプログラマになるというのでもなく、ただただ自分が何者であり、何になるのかを枠にはめることが、自分にとってはマイナスなのではないだろうかと、切に感じていたのだ。それも日常のあらゆる場面で。僕は昔から算数、そして数学が得意だったけれど、だからといって数学ばかりやっているのもなぜか良い気持ちにはならなかった。可能性を狭めているような気がしたからだ。なんだったら英語を話せたほうがいろんな人と会って価値観を広げられるかもしれないし、もしかしたらもっとサッカー部の活動に打ち込むほうが良いのかもしれない。などと、様々なことに手を出しては、可能性を広めたような気になっていたのだ。

進路を決めるということも可能性を狭めることだと思っていた。例えば、大学。例えば、仕事選び。何かに自分をはめてしまえば、自分はその枠のなかの存在になる。僕はなぜかそれがずっと嫌だった。ギターを始めたのはそういうものに対するある種の衝動だった。別のことに没頭したくなるのだ。

でもね。やらなければわからないものだ。いつからだろう。去年事業をやり始めてからかも知れない。もしくは大学のサークルで身を粉にしたからかもしれない。わからない。でもね、面白さとか、好きなこととか、その先にある楽しみとか、どんな人と会えるかとか、やってみないとわからないんです。行動しなきゃわからない。それって可能性を狭めてるのかなって思うと、全然そうじゃないんですね。当たり前のことが、僕はわかっていなかった。

そんなことを考えながら、今の自分の状況について改めて考えたりしていた。キルケゴールはまた良い示唆を送ってくれている。「絶望がなければ可能性は見えない」。キツイ状況の時って、あとからみると自分が一歩踏み出していたということに気がつく。僕は今、あまり自分を追い込んでない。余裕がある。バランスをとってる。それが今の僕の成長の妨げ、というよりは自分が「学ぶべき」と思っていることに対して自分が追いつけていない理由なのかもしれないな、と思った。

2012年8月16日木曜日

関連性と記憶に関する覚書

文脈の中でものを覚え、使いながら本質を探る。手探りだけれども、ただの手探りではなく、少しずつ何かを使いこなそうとする。そういう場面に最近触れることが多くなった。

何らかの事象を記憶しようとしたとき、別の事象、もしくはそれらが属する集合といった視点でものごとを覚えようとしたことは誰でもあるだろう。中学校のテストで歴史の年号を語呂合わせで覚えようとするのは分かりやすい関連性の例だ。他にも以下のようなものには触れる機会が多いのではないかと思う。

  • 英単語を意味とスペルだけではなく、特徴的な文章と共に覚える。
  • 漢字を読み方と書き方だけでなく、その由来と共に暗記する。
  • 数学の公式を語呂合わせで覚える。2次方程式の解の公式などは良い例。
関連性をもたせると覚えやすい。最近だと私は数学ガールを読んでいるのだが(ガロア理論はまだ途中。他は全部読んだ。)、数式と共に本の中での楽しい会話と風景が描写されることが増えた。覚えるものの情報の総量は、事象そのものを記憶するよりも多くなるにも関わらず、だ。これはある種、人の記憶容量の大きさを示しているのかもしれない。コンピュータだって記憶という観点からは、もっと富豪的に入れてあげたほうが覚えてくれるのかもしれない。

普段何かの情報を得ようとするとき、私は関連性を常に意識している。本を読む、人から聴く、Webで見つける。どんな場合であれ、その情報に触れたのが、どのような場所で、どのような人から発せられ、そのとき近しい出来事で何が起きており、過去のものとどんな関連性があるのか。そしてその情報の中にはいくつのファクターがあり、それら同士がどのように影響しているのか。そういうことを1つのイメージに起こしながら情報を受け取る癖がついている。そして大体興味のないものというのは気がついたら忘れている。頭が何段もの引き出しになっているならば、使われない情報は下の方の引き出しの奥の方にしまわれていっているのかもしれない。

昔学んでいた速読にもそういう手法が背景にあった(あれは事象を一気に頭の中に自然に取り込んで、関連性を見出すことを頭に任せるというトレーニングが大事だった)。マインドマップはより意識的に構造を整理する必要があった。一回一回書きだすのは大変なのだけれど、体から出てくる偶発性によってまた記憶のための関連性が生まれる。例えばPCじゃなくて手書きをすると、幾何学的に整った図形にはならない(なるはずがない)が、癖のある字なり図ができあがる。手書きの文字は図なのではないかと最近は思うほどだ。手書きの文字・図は予期せぬ関連性を生み出す。だから記憶に残る。そして記憶に残るだけではなく、関連性を引っ張りだしてきて、発想を広げてくれる。こういう認識に私は確信をもっているので、何かを多少自由に思い巡らせたい時には紙とペンを持つ。

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ここまでの話は当たり前だ、と感じる人も少なくないと思う。最近の僕の課題はこれをどう人に伝えるかということだ。話し合いや、他の人の学習にもこういう考え方、前提を共有しておきたいものだ。

ふとエンジニアの同期から「業務外のことをどのように学んでいるか」という問いかけがあった。そういえば自分はどうしているのだろうな、と考えてみた。普段から、学ぶことを仕事に活かし、仕事で今学びたいことを使うようにしているので、そもそも業務外という括りが的を得ていないのかもしれない。だがそれだと答えにならない。もう一つ深ぼってみると、業務外のことを学ぶ、というのはおそらく、学んでみたいことを学ぶ、ということにこの場合言い換えられるのではないだろうかと考えられた。

エンジニアとしては色々な学び方の方向性が考えられる。もっと最適化のアルゴリズムを知りたい、JavaScriptを使ってなめらかなUIを作れるようになりたい、システムコールについて深掘りしたい、など人によって様々だ。私は好きなように学べばいいと思うし、好きな事を学ぶことが一番健康的でその人のためになると思っている。(逆に言うと好きな事をやるなら、その学習に自分自身で責任を負うべきだ、とも思っている。それがためになる、ということの裏返しなのかもしれない。)そしてその学びたいことに行き着くきっかけがあるはずだ。学びたいことには2種類ある。新しいことを知りたいというケースと、深く知っておきたいというケースだ。

新しいことを学ぶというのは案外コストが大きい。調べていると知らないことばかりたくさんでてくる。何かを学び始めるにはその学ぶことを精査すべきだ。精査して、もし自分がそれを学んでためになりそうで、どこかで活きてきそうならそれを学べばいい。ただ、この活きてきそう、というのは曖昧な境界だ。これはお金を稼ぐという意味なのだろうか。はたまた、知的な興味をより刺激して、新しい世界が見えそうだという意味なのだろうか。この判断は曖昧だ。あまりに一般に使われている技術から外れていなければ、そんなに心配しなくても活かす機会もあるだろう。自分が新しいことを学ぶときにはそういうラインでものを考えているようだ。

深掘りする場合には戦略を練る。今知っているのはその技術のどこまでなのだろうか。その技術はこれから先どこに向かうのだろうか。そういうことをまず俯瞰する。俯瞰して、自分のスキルの具合に検討をつけてみて深掘りすることに意義があるのであれば、本格的にどの方向に向かっていくかを決める。それは必ず技術のコアな方向に向かっていなければならないと思うし、自然とそういう方向に興味が向いていくものなのではないかと思う。

こう文章を書いていると、どういう方向に自分が学んでいけばよいかを相談できる人がいる環境というのはそうではない環境と比べて優れているといえるということに気がついた。相談できる人はきっと、いろんな関連の中から物事を学んできているはずだ。そのように学んできていれば、逆に自分が教えるときにも、適切なアドバイスをすることができるようになるのではないだろうか。


2012年8月14日火曜日

自戒

4日間ほど実家に帰省していた。帰省をすると考え事をする。そのときのメモを後のために残しておく。

  • 環境によって自分を制限しない
  • 人によって自分を縛らない
  • 領域によって自分を狭めない
4月からの環境に甘えていた部分はないか。ゼロベースで鳥瞰して、今日までの仕事を生産していた。結果、自分の想像よりまったくもって不十分だった。Data Scientistとして仕事をしたいのに、解析基盤づくりばかりしていた。僕に足りないのは分析スキルと分析の経験。そのための時間と環境を自分で作ることに時間を割きすぎた。もっと貪欲にやりたい。

  • 友達を大切にする
  • 礼儀を正す
当たり前だけれども、蔑ろにしてしまった部分があったと思うところが多々ある。指摘してくれる人はいない。自ら正す。

  • 尊敬なしには学べない
学ぶ際には、相手を尊敬する。敬う。その姿勢が足りなかった。今自分が深く省みなければならない点はここだ。年齢も立場も関係なく、相手を敬わなければ学べない。それによって学ぶ機会を多く失っていたと感じられた時間が多かった。だからといって自分から何か生めていたかというと、そうとも感じていない。なんて無意義な時間を作ってしまったのだろう。

仕事や生活の棚卸をした。まだまだ足りないところばかりだ。