2012年8月16日木曜日

関連性と記憶に関する覚書

文脈の中でものを覚え、使いながら本質を探る。手探りだけれども、ただの手探りではなく、少しずつ何かを使いこなそうとする。そういう場面に最近触れることが多くなった。

何らかの事象を記憶しようとしたとき、別の事象、もしくはそれらが属する集合といった視点でものごとを覚えようとしたことは誰でもあるだろう。中学校のテストで歴史の年号を語呂合わせで覚えようとするのは分かりやすい関連性の例だ。他にも以下のようなものには触れる機会が多いのではないかと思う。

  • 英単語を意味とスペルだけではなく、特徴的な文章と共に覚える。
  • 漢字を読み方と書き方だけでなく、その由来と共に暗記する。
  • 数学の公式を語呂合わせで覚える。2次方程式の解の公式などは良い例。
関連性をもたせると覚えやすい。最近だと私は数学ガールを読んでいるのだが(ガロア理論はまだ途中。他は全部読んだ。)、数式と共に本の中での楽しい会話と風景が描写されることが増えた。覚えるものの情報の総量は、事象そのものを記憶するよりも多くなるにも関わらず、だ。これはある種、人の記憶容量の大きさを示しているのかもしれない。コンピュータだって記憶という観点からは、もっと富豪的に入れてあげたほうが覚えてくれるのかもしれない。

普段何かの情報を得ようとするとき、私は関連性を常に意識している。本を読む、人から聴く、Webで見つける。どんな場合であれ、その情報に触れたのが、どのような場所で、どのような人から発せられ、そのとき近しい出来事で何が起きており、過去のものとどんな関連性があるのか。そしてその情報の中にはいくつのファクターがあり、それら同士がどのように影響しているのか。そういうことを1つのイメージに起こしながら情報を受け取る癖がついている。そして大体興味のないものというのは気がついたら忘れている。頭が何段もの引き出しになっているならば、使われない情報は下の方の引き出しの奥の方にしまわれていっているのかもしれない。

昔学んでいた速読にもそういう手法が背景にあった(あれは事象を一気に頭の中に自然に取り込んで、関連性を見出すことを頭に任せるというトレーニングが大事だった)。マインドマップはより意識的に構造を整理する必要があった。一回一回書きだすのは大変なのだけれど、体から出てくる偶発性によってまた記憶のための関連性が生まれる。例えばPCじゃなくて手書きをすると、幾何学的に整った図形にはならない(なるはずがない)が、癖のある字なり図ができあがる。手書きの文字は図なのではないかと最近は思うほどだ。手書きの文字・図は予期せぬ関連性を生み出す。だから記憶に残る。そして記憶に残るだけではなく、関連性を引っ張りだしてきて、発想を広げてくれる。こういう認識に私は確信をもっているので、何かを多少自由に思い巡らせたい時には紙とペンを持つ。

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ここまでの話は当たり前だ、と感じる人も少なくないと思う。最近の僕の課題はこれをどう人に伝えるかということだ。話し合いや、他の人の学習にもこういう考え方、前提を共有しておきたいものだ。

ふとエンジニアの同期から「業務外のことをどのように学んでいるか」という問いかけがあった。そういえば自分はどうしているのだろうな、と考えてみた。普段から、学ぶことを仕事に活かし、仕事で今学びたいことを使うようにしているので、そもそも業務外という括りが的を得ていないのかもしれない。だがそれだと答えにならない。もう一つ深ぼってみると、業務外のことを学ぶ、というのはおそらく、学んでみたいことを学ぶ、ということにこの場合言い換えられるのではないだろうかと考えられた。

エンジニアとしては色々な学び方の方向性が考えられる。もっと最適化のアルゴリズムを知りたい、JavaScriptを使ってなめらかなUIを作れるようになりたい、システムコールについて深掘りしたい、など人によって様々だ。私は好きなように学べばいいと思うし、好きな事を学ぶことが一番健康的でその人のためになると思っている。(逆に言うと好きな事をやるなら、その学習に自分自身で責任を負うべきだ、とも思っている。それがためになる、ということの裏返しなのかもしれない。)そしてその学びたいことに行き着くきっかけがあるはずだ。学びたいことには2種類ある。新しいことを知りたいというケースと、深く知っておきたいというケースだ。

新しいことを学ぶというのは案外コストが大きい。調べていると知らないことばかりたくさんでてくる。何かを学び始めるにはその学ぶことを精査すべきだ。精査して、もし自分がそれを学んでためになりそうで、どこかで活きてきそうならそれを学べばいい。ただ、この活きてきそう、というのは曖昧な境界だ。これはお金を稼ぐという意味なのだろうか。はたまた、知的な興味をより刺激して、新しい世界が見えそうだという意味なのだろうか。この判断は曖昧だ。あまりに一般に使われている技術から外れていなければ、そんなに心配しなくても活かす機会もあるだろう。自分が新しいことを学ぶときにはそういうラインでものを考えているようだ。

深掘りする場合には戦略を練る。今知っているのはその技術のどこまでなのだろうか。その技術はこれから先どこに向かうのだろうか。そういうことをまず俯瞰する。俯瞰して、自分のスキルの具合に検討をつけてみて深掘りすることに意義があるのであれば、本格的にどの方向に向かっていくかを決める。それは必ず技術のコアな方向に向かっていなければならないと思うし、自然とそういう方向に興味が向いていくものなのではないかと思う。

こう文章を書いていると、どういう方向に自分が学んでいけばよいかを相談できる人がいる環境というのはそうではない環境と比べて優れているといえるということに気がついた。相談できる人はきっと、いろんな関連の中から物事を学んできているはずだ。そのように学んできていれば、逆に自分が教えるときにも、適切なアドバイスをすることができるようになるのではないだろうか。


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