2012年8月26日日曜日

可能性に打ちひしがれていてもどうしようもない

「私には可能性がたくさんある」というのは決して良い面ばかりではない。

今日、フットサルをしてきた。久々にしっかりと運動をした。高校まではずっと部活でサッカーをやっていたが、大学に入ってからはギターばかり弾いていたのでほとんどサッカーをしていなかった。こうして久々にサッカーをしてみると楽しいものだ。東京は暑いが、サッカーの面白みはどこでやっても変わらない。球を蹴るのが純粋に楽しい。

さっきご飯を食べながら、キルケゴールの「死に至る病」を読み直していた。重い題名だが、死というよりは絶望について述べられている本だ。ここの本の文脈では絶望というのは、キリスト教で言うところの神様が超えられるもので、一般人の我々には常に存在しているものだ。

「死に至る病」ではざっくり言うと、「絶望と向き合わないと絶望を抜けられないのだよ」という示唆を与えてくれる。

ひとは何もしなければ可能性に満ち溢れている、と僕はよく感じていた。制限されないからだ。中学生の頃だろうか、僕自身が何者かになろうとすることが、かえって自分を狭めてしまうのではないだろうかという念に駆られていた。「プロサッカー選手になる」でも、「大学教授になる」でも、ましてやプログラマになるというのでもなく、ただただ自分が何者であり、何になるのかを枠にはめることが、自分にとってはマイナスなのではないだろうかと、切に感じていたのだ。それも日常のあらゆる場面で。僕は昔から算数、そして数学が得意だったけれど、だからといって数学ばかりやっているのもなぜか良い気持ちにはならなかった。可能性を狭めているような気がしたからだ。なんだったら英語を話せたほうがいろんな人と会って価値観を広げられるかもしれないし、もしかしたらもっとサッカー部の活動に打ち込むほうが良いのかもしれない。などと、様々なことに手を出しては、可能性を広めたような気になっていたのだ。

進路を決めるということも可能性を狭めることだと思っていた。例えば、大学。例えば、仕事選び。何かに自分をはめてしまえば、自分はその枠のなかの存在になる。僕はなぜかそれがずっと嫌だった。ギターを始めたのはそういうものに対するある種の衝動だった。別のことに没頭したくなるのだ。

でもね。やらなければわからないものだ。いつからだろう。去年事業をやり始めてからかも知れない。もしくは大学のサークルで身を粉にしたからかもしれない。わからない。でもね、面白さとか、好きなこととか、その先にある楽しみとか、どんな人と会えるかとか、やってみないとわからないんです。行動しなきゃわからない。それって可能性を狭めてるのかなって思うと、全然そうじゃないんですね。当たり前のことが、僕はわかっていなかった。

そんなことを考えながら、今の自分の状況について改めて考えたりしていた。キルケゴールはまた良い示唆を送ってくれている。「絶望がなければ可能性は見えない」。キツイ状況の時って、あとからみると自分が一歩踏み出していたということに気がつく。僕は今、あまり自分を追い込んでない。余裕がある。バランスをとってる。それが今の僕の成長の妨げ、というよりは自分が「学ぶべき」と思っていることに対して自分が追いつけていない理由なのかもしれないな、と思った。

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