2015年11月30日月曜日

リベルテの第12回定期演奏会に出演します

今週土曜日です!



今週の土曜日、12/5の17:30から、トッパンホールで演奏会をやります。

9月に鹿児島で演奏したPops in Mandolin Orchestra(ビートルズの編曲作品)と、マンドリン協奏曲六花の2曲に加え、新しい委嘱作品であるヘリコプリオン(作曲していただいた作品)、そしてラヴェルのラヴァルスと、より取り見取りなプログラムとなりました。

Pops in Mandolin Orchestraではノルウェイの森、ミッシェル、ヘイジュードの3曲を作曲家の方に1曲ずつ編曲していただきました。編曲は橋爪皓佐さん、桑原ゆうさん、壺井一歩さんです。それぞれの曲で音の使い方もアンサンブルも違っていながらも、3曲通して聞くとまた1つの世界観があります。ギター弾きとしてはクラシックの演奏会の中でどこまでポップスよりに弾くのか、それともクラシックとしての表現にするのか、といったニュアンスが少しの塩加減で変わってしまいそうになるというところを楽しんで弾いています。また、編曲に関する考え方が変わった3曲でもあります。

六花はリベルテとして2012年に田口和行さんに委嘱し、初演させていただいたマンドリン協奏曲です。コンマスの望月さんだけでなく、オケとしても回を重ねるごとに響の作り方が洗練させてきたように思います。

ヘリコプリオンは川上統さんに委嘱した作品で、エスプリマンドリンオーケストラとの合同委嘱作品です。リベルテ版では望月さん、そしてマンドラの野田さんの2人がソリストとして演奏する形式になっています。終始激しい演奏です。音で鋭利なものを表現するとこうなるのか、というのを感じながら弾いています。フュージョンやメタルが好きな人なんかが聞くと面白いかもしれません。ノコギリのような曲です。

ラヴェルのラヴァルス。私はこの曲が好きで、2年前に大学の後輩たちが演奏しているのを観に行っていいなぁ弾きたいなぁと思っていたら自分でも弾く機会がやってきました。ラヴァルスは崩壊していくワルツだ、と聞いている時は思っていました。しかしリハーサルを重ねていて気がついたのは、崩壊というのは自然に起こるのではなくて、崩壊させる必要があるということです。

クラシックのコンサートはホールで聴くと響きが楽しめます。特にマンドリンオーケストラは音の立体感を鮮明に感じることができるので、一度生で聴いてみてください。

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Liberte the 12th concert

2015.12.5(土) 開場 17:00/開演 17:30

トッパンホール(JR飯田橋駅より徒歩約13分)

全席自由:一般 2,000円 (当日 2,500円) / 学生 1,000円 (当日 1,500円)

客演指揮    鷹羽弘晃
マンドリン独奏 望月豪(第5回大阪国際マンドリンコンクール第1位)

<曲目>

Lennon=McCartney (橋爪皓佐・桑原ゆう・壺井一歩編)
Pops in Mandolin Orchestra - The Beatles I
Norwegian Wood(This Bird Has Flown)/Michelle/Hey Jude
マンドリン独奏:望月豪 マンドラテノール独奏:野田一人 ほか

田口和行
マンドリン協奏曲「六花」

川上統
ヘリコプリオン(委嘱初演)
(Espritマンドリンオーケストラとの合同委嘱)

M.ラヴェル(鷹羽弘晃編)
ラ・ヴァルス


http://www.liberte-mandolin.com/#Concert

2015年11月10日火曜日

言葉の式

言葉の式というのを小学生の時に習った。算数の文章題を解くために、式を立てる前に言葉で表現してから数式を作る。そのための言葉でできた式を言葉の式と呼んでいた。

例: りんご5個とみかん10個買った。代金の合計は1500円だった。りんご1個の値段はみかん1個より30円高い。みかんは1個いくらか。

(りんご1つの値段) * (りんごを買った個数) + (みかん1つの値段) * (みかんを買った個数) = (代金)
(りんご1つの値段)- (みかん1つの値段) = (りんごがみかんよりもいくら高いか)

これが言葉の式である。そのあとの数字で置き換える。

(りんご1つの値段) * 5個 + (みかん1つの値段) * 10個 = 1500円
(りんご1つの値段)- (みかん1つの値段) = 30円

方程式という概念を学んでしまうとともすればこういうステップを飛ばしてしまいがちではある。例えば言葉の式の世界においては、以下のようにしてはいけない。

(りんご) * 5 + (みかん) * 10 = 1500
(りんご)- (みかん) = 30

それが何を示しているのか、ということを少しサボって理解せずにいると、気がつけば何をやっているのかわからなくなってしまうということもある。そういう時には言葉の式に立ち戻ってちゃんと自分の言葉で問題を表現する。小学生の頃だったので言われたものをそのまま黙々とやっていただけなのであるが、今思えばこれは問題に対する抽象を考えるというためのトレーニングだったのだと言える。

言葉の式の考え方は私が様々な規則のある物事を考えるために役立っている。プログラムもその一環である。ファイルを読み込んで1行ずつscanする。これをプログラムに落とし込む。

    f, err := os.Open(path)  // ファイルを開いて
    if err != nil {
      return err
    }
    defer f.Close()
    scanner := bufio.NewScanner(f) // スキャナにセットする

プログラムを書いたことがある人にはパッと見てわかるかもしれない。しかしプログラムを書いたことのない人にはわかりづらいかもしれない。こうした怪しい文字列を見ただけで拒絶反応を出してしまう人もいるだろう。僕のようなプログラマだって、直接この文字列を使って会話をしているわけではない(もちろんそういう風に見えることだってあることは否定しないけれど)。ここに書かれていることが何をしているのかを母国語ないし英語として理解してから、プログラムを理解している。ある程度プログラムを書いたことのある人ならば、他の言語で書かれているものもなんとなく理解できることが多い。もちろん「なぜプログラムが動くのか」「ファイルとはどのように扱うものか」という前提知識があるとさらに理解しやすくなる。とはいえ細かい振る舞いまでは知らなくとも、どういうことをしているかというのはおおよその見当がつくものである。

プログラムの字面自体も言葉の式に落とし込むことができる。しかし普段はもう少しプログラムから離れたものでも言葉の式に落とし込んでいる。新しい機能を作るときに、「なぜこの機能を作る必要があるか」ということを考えるとしよう。もちろん「作りたいから作る」という熱い気持ちでガッと作ってしまうこともなくはないが、多くの場合は優先順位を立てて、「それを本当に作るべきかどうか」という議論であったり判断をすることになる。この時に私は説明的な文章で考えを整理し、同僚やマネージャーに共有するということを日常的にしている。「事業およびシステムの背景と現状」「現状の課題と問題点」「それに対する解決法とアプローチ」「期待される成果」というあたりのトピックをまとめて書くようにしている。いわゆるデザインドキュメントと言われているものに近いのかもしれない。

プログラムそれ自体にとってはデザインドキュメントというのは少し遠い場所にあるように思われるかもしれない。私としては「なぜそれを作るか」というのは、コードの質やその表現以上に大事なことがあると考えている。プロダクトにフェーズや事業の状況にもよるかもしれないが、私の関わっている環境ではどちらかというと「何を作るのか」の判断の積み重ねが事業に影響を与えやすいことがほとんどだった。結果として「なぜ」に対する「どのように」の実現がプログラムとして現れるのである。デザインドキュメントというのは機能に対する理由付けを抽象を使って文章で表現する手段である。「なぜ」という抽象を言葉に落とし込んで、そしてそれをまた「どのように」やるかを設計する。「どのように」をさらに言葉に落とし込んで、プログラムを書いている。

ということをlexerを書いていてふと思ったので、文章に起こしてみた次第である。


2015年11月3日火曜日

地味な時間

私は地味な時間が好きだ。華やかではなく、控えめな時間はよい。

地味な時間には動きがない。一人本を読んでいるときや、楽器をじっくりと弾いているとき。楽譜に向かわずにひたすら人差し指の着弦具合を調整するとき。メトロノームで速さを1メモリだけあげて、繰り返し弾いているとき。料理前にじゃがいもの皮を向くとき。シャワーを浴びながら明日書くコードのことを考えるとき。そういう時間が好きなのだ。

華やかさの裏には数えきれないほどの地味な時間がある。大きなイベントの裏にはずーっとそのことを考える人たちと時間がある。演奏もそうだ。クラシックの演奏会では演奏している時間は1時間半ほどで、それまでに膨大な準備の時間がある。地味な時間である。

いつからか地味な時間が好きになったのである。目立ってあれこれ見せている時とか、何かを発表する瞬間というのは楽しいものであるが、一瞬である。人前に立って、相手の時間を奪ってしまっているという感覚が昔から抜けないため、何かを発表するというときはどういうときであれ準備に時間をかける。人の前に立つときはいつでも一大事だ。いつもと違う興奮の中にある。手を抜いていることはすぐにばれるし、自分が怠けているのは自分が一番気がつく。だから真剣にやるのである。真剣にやるためには、準備が必要なのである。

準備をしたり、練習をすることはつらいときもある。「セッション」の狂気ではないにせよ、どうしても頑張らなければ進めないことだってある。私はサッカーを10年近くやっていたが、練習はいつの間にか好きになっていたが試合はいつでも億劫だった。ボールを蹴るのを巧いと思ったことは未だに無いのだが、もくもくと練習に取り組むのは嫌いではなくなっていた。小学校のころ、3,4年サッカーをしていたのに、リフティング大会で1桁しか続かなかったりしたこともある。才能はなかったのだが、なぜかその後も続けてしまった。ほとんど中学校や高校のころも部活で続けていたが、よっぽどのことが無い限り練習を休まなかった。なぜかはわからないが、練習自体は嫌いではなかった。地味な時間は、とりわけそれについて上手であることを求めないらしい。

仕事でプログラムを書くというのはちょっと変わった行いである。常に本番で、常に地味な時間が続く。たまにリリースされるものがあることもあるが、新しいサービスを0からつくって出す時でもなければ常に付け加えるということをしている。プロダクトはたまに建造物に例えられる。サグラダ・ファミリアが完成するとかしないとか、建造物では完成しないものはあまりないようである。もしかしたら2030年になっても渋谷駅と横浜駅だけは工事を続けているのではという気もするが。とりわけサービスというのは常に改善と変化が求められる。私は広告配信のシステムをつくっているが、常に何がしかの理由から変化が求められる。完了しないのだ。同じ目的を達成するものをより綺麗な設計に書き換えることもある。そういうときは喜びを感じる。常に地味で、常に本番を続けている。完了しないシステムをつくると、生活もそう変わっていく。問題を解決する方法を歩きながらでもシャワーをあびている時でも気がついたら考えていて、どこかにメモをして朝それを書く。地味な時間の中でひそやかに少しずつ改良していくのである。

職業プログラマとして仕事を始めてから4年ほど経って、習慣にしていることがある。それは平常であり続けて、毎日少しずつ歩を進めることだ。いろんな要因で頭のなかにあるプロダクトの構造や問題のあり方が霞んでいってしまったりすることがある。人の頭のなかがどれくらい複雑なのかは計り知れないが、少なくともちょっとしたバランスで何かができなくなってしまうことがある。それを日々恐れている。ただそのバランスを巧く保つコツを身につけながら、少しずつ日々何かを良くすることが、明日の良い仕事につながっている。これはとても地味なことだが、楽しいことなのである。

地味な時間の中で、自分の変化に気がつけるようになる。毎日ストレッチしていると、少しずつ身体がほぐれていくのがわかるように。

映画「セッション」を観た

去年公開されたデミアン・チャゼルの映画「セッション」。映画館で観たいなと思っていたのだけれど見そびれたのでiTunesで借りてみた。

ラストシーンが前から口コミで話題になっていたので、どういう終わり方になるのかなと楽しみに。見終わって口に出たのは「えー」だった。106分という短い時間、音楽院での厳しいレッスンのシーンが続いて、見ていて思わず苦しくなってしまう。わー、自分はああいうレッスン受けたくないなと思ったり・・。狂気じみているし、それでいてバンドの連帯感とかそういうところには一切フォーカスせずに作品を作っているのだなというのが伝わってきた。どうしてこのスパルタな教育というところに焦点をあてようと考えたのだろう。もしかして脚本を書いた人はこういう現場にいたのだろうか。などと考えながらずーっとスクリーンから目を離せなかった。

終わってからWikipediaをみるとこう書いてあった。

> デミアン・チャゼルは高校時代に、競争の激しいジャズバンドに所属し、本当に怖い思いをしたという。テレンス・フレッチャーというキャラクターにはその経験が反映されている。その上でバディ・リッチのようなバンドリーダーを参考に練り上げたキャラクターだとチャゼルは語っている[5]。
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/セッション_(映画) より

とあり、妙に納得したのだった。

細かいところであるが、音楽でもプログラミングでもそうなのだけれど、それだけしかやりたくなくなる。時間の余裕もなくなる。この物語から狂気を感じるのは、フレッチャーだけでなくニーマンがドラムに取り憑かれているその描き方にある。最後のシーンはコンサートにシーンだが、私が「えー」と思ったのはステージに立ったことがあるからかもしれない。という話を誰か観た人と酒の肴にしたいものである。(ということをしたいならやはり公開されてすぐに観たほうが良いのである

2015年11月1日日曜日

1Q84を読んだ

文庫本が出たのは知っていたのだけれども、6冊もあるためなかなか気合をいれないと読み切れない。先週の水曜日から帰宅するごとに1日1冊ずつ読み進めていて、残りを土日で読み終えた。

読後は1つ別の世界をぐるっと回ってきたような気持ちになる。小説を読むと描かれている光景が目に浮かんで、自分の思うままに映像をつくるようにして味わう。この1Q84は美麗でもなければファンタジーでもない、比較的に日常の風景を切り取っている。そう思って読んでいるとやはり気がつけば知らないところに運ばれていた、という独特の感覚を覚えた。村上春樹さんの他の作品もいくつか読んでいるが、この作品は比較的読みやすかった。どこの書き方がどう違うかと言われると説明が難しいのだけれど。

青豆と天吾という2人が20年越しにどのように会うのかという枠組みで全てが進むのかと思いきや、小説が綴る文章が世界をつくっていって不思議な引力を働かせる。ああそして私もまたこうして紙の小説を読んでまた違う世界に運ばれているのだと思わせられる。箱の中にある箱をみて愉しんでいたら、自分も箱の中にいたのだと気がつくようなものだ。マトリョーシカの2段目の人形も同じ気持ちなのかもしれない。

この1Q84では、普段わたしの通る道が登場する。それもまたこの小説を読みながら不思議な思いにさせられる一因でもあった。