2015/11/03

地味な時間

私は地味な時間が好きだ。華やかではなく、控えめな時間はよい。

地味な時間には動きがない。一人本を読んでいるときや、楽器をじっくりと弾いているとき。楽譜に向かわずにひたすら人差し指の着弦具合を調整するとき。メトロノームで速さを1メモリだけあげて、繰り返し弾いているとき。料理前にじゃがいもの皮を向くとき。シャワーを浴びながら明日書くコードのことを考えるとき。そういう時間が好きなのだ。

華やかさの裏には数えきれないほどの地味な時間がある。大きなイベントの裏にはずーっとそのことを考える人たちと時間がある。演奏もそうだ。クラシックの演奏会では演奏している時間は1時間半ほどで、それまでに膨大な準備の時間がある。地味な時間である。

いつからか地味な時間が好きになったのである。目立ってあれこれ見せている時とか、何かを発表する瞬間というのは楽しいものであるが、一瞬である。人前に立って、相手の時間を奪ってしまっているという感覚が昔から抜けないため、何かを発表するというときはどういうときであれ準備に時間をかける。人の前に立つときはいつでも一大事だ。いつもと違う興奮の中にある。手を抜いていることはすぐにばれるし、自分が怠けているのは自分が一番気がつく。だから真剣にやるのである。真剣にやるためには、準備が必要なのである。

準備をしたり、練習をすることはつらいときもある。「セッション」の狂気ではないにせよ、どうしても頑張らなければ進めないことだってある。私はサッカーを10年近くやっていたが、練習はいつの間にか好きになっていたが試合はいつでも億劫だった。ボールを蹴るのを巧いと思ったことは未だに無いのだが、もくもくと練習に取り組むのは嫌いではなくなっていた。小学校のころ、3,4年サッカーをしていたのに、リフティング大会で1桁しか続かなかったりしたこともある。才能はなかったのだが、なぜかその後も続けてしまった。ほとんど中学校や高校のころも部活で続けていたが、よっぽどのことが無い限り練習を休まなかった。なぜかはわからないが、練習自体は嫌いではなかった。地味な時間は、とりわけそれについて上手であることを求めないらしい。

仕事でプログラムを書くというのはちょっと変わった行いである。常に本番で、常に地味な時間が続く。たまにリリースされるものがあることもあるが、新しいサービスを0からつくって出す時でもなければ常に付け加えるということをしている。プロダクトはたまに建造物に例えられる。サグラダ・ファミリアが完成するとかしないとか、建造物では完成しないものはあまりないようである。もしかしたら2030年になっても渋谷駅と横浜駅だけは工事を続けているのではという気もするが。とりわけサービスというのは常に改善と変化が求められる。私は広告配信のシステムをつくっているが、常に何がしかの理由から変化が求められる。完了しないのだ。同じ目的を達成するものをより綺麗な設計に書き換えることもある。そういうときは喜びを感じる。常に地味で、常に本番を続けている。完了しないシステムをつくると、生活もそう変わっていく。問題を解決する方法を歩きながらでもシャワーをあびている時でも気がついたら考えていて、どこかにメモをして朝それを書く。地味な時間の中でひそやかに少しずつ改良していくのである。

職業プログラマとして仕事を始めてから4年ほど経って、習慣にしていることがある。それは平常であり続けて、毎日少しずつ歩を進めることだ。いろんな要因で頭のなかにあるプロダクトの構造や問題のあり方が霞んでいってしまったりすることがある。人の頭のなかがどれくらい複雑なのかは計り知れないが、少なくともちょっとしたバランスで何かができなくなってしまうことがある。それを日々恐れている。ただそのバランスを巧く保つコツを身につけながら、少しずつ日々何かを良くすることが、明日の良い仕事につながっている。これはとても地味なことだが、楽しいことなのである。

地味な時間の中で、自分の変化に気がつけるようになる。毎日ストレッチしていると、少しずつ身体がほぐれていくのがわかるように。