2018/05/14

集中力と好奇心

人は誰しもまだ自分に足りないと思う部分があるものだと思う。僕自身がそうで、事あるごとに前の十分を改め、一日がおわれば一日を改める。もしまたそのときがくればもう少しよく振る舞い、もう少し納得のいく考え方ができたかもしれない。そう思うと一日が終わっている。

未熟さとは、何か足りない状態であるだけではなく、足りない物事を捉える機会である。まだ熟れる余白や間があり、あるいは隣の果実に比べて色づきが足りなかったりする。それを見て、自分を塗りあわせていく。どんな陽にあたればあんな色づきになるのだろうと観察し、下から上から見回して、ようやく自分と違う部分が少しずつ見えてくる。隣の芝生が青いとは、未熟さを知ることだ。

ある物事について深く考える。深く考えているときは気持ちがいいし、視界が明瞭になり、即断し、経験に基づいて様々な考え事が絶え間なく進んでいく。深く考えることは、集中の入り口である。僕たちは普段考え事をしていると思ったら、気がつけば集中の入り口に立っている。集中の中に入ると、長くて短い考えの渦の中に身を委ねられる。その中で気がつけば一日が終わる。

集中力の長さ、深さ、入るまでの時間について。集中するまでに長い時間を要するが、一度集中すれば深く長い。あるいは、細切れの時間にたびたび集中するが、一度の時間は短く、浅い。例えば試合中のスポーツ選手や千人の前で弾いている演奏家、対局中の将棋の棋士、コーディング中のプログラマ、あるいは執刀中の医者。集中力は仕事の質を変えているだろうと想像できるし、集中している対象も様々である。膨大な知識と経験を組み合わせて、適切な手段と方法を選び続ける。フィードバックを得ればその最中に反射的に答える。まだ問題に深く入り込んで頭のなかに依存関係や前提を再構築する。これを繰り返す。するとすっかり集中の深みに潜り込んでいく。もうそれ以外のことは考えていないし、むしろ何も考えてはいなくなる。

長く深く集中するための方法は、準備することだ。四六時中それについて考え、下調べをして、頭の片隅で考えを転がしておく。意識せずとも対象について考えるようになると、集中の入り口に立っている。常に考えていられるものというのは大抵いつも面白く、好奇心が湧く対象である。常に考えるというのは存在せず、常に考えていないからこそ常に考えられる。ずっと考えるというのは疲れてしまう。意識せずともそれについて考えているようになると、あるいは考えてしまうようになっているといつの間にかそうなっていくように人間はできているのかもしれない。頭の片隅にあるとは良くできている表現である。片隅に置くことが、最も深い集中を作る。まだ折りたたんでいない洗濯物でさえも、そうであったらいいのに。

好奇心を失うことは、熟れることだ。なぜだかよくわからないがなぜそれがそのようになっているのかについて深く考えてしまうのである。好奇心は考える事の源泉だ。ぽっかり好奇心が無くなってしまえば、あっという間に集中力は消えてしまう。