勇ましい人がある面で女々しかったり、狡猾に思えた人が律儀であったり、誰にも明るく振る舞う人が実は一人の静かな時間を愛していたりする。
人と話したり、話を聞いたりしているとこれまであった人たちと重ねて、ああこういう方なのかなと考えてしまいがちである。ある一面をみて、とても細かい人だなーと思った人が別の日にはとても大雑把に見えたりもする。
自分自身でもよく矛盾をしている。晴れた日には散歩をすべきだと日頃いっていても、実は出不精をこじらせて家でパソコンを触り続けていたりする。普段から元の場所にものを戻す癖があるのに、なぜか自分のパーカーだけはいつも違うところに置く。誰かに少し気を使って振る舞えたと思えば、その次には勝手なことをしてしまったりもする。同じ自分の中なのに、特に考えたわけでもなく、なにか通らないことをしてしまうことがある。
今日はモームの「月と六ペンス」という小説を読んだ。ストリックランドという架空の画家の話である。ストリックランドはイギリスの証券会社で働いていたが、40歳のある日突然仕事をやめて家を飛び出してしまう。それまで真面目そうに見えていた人間が、支離滅裂な会話をし、全く人に気を使わない人物像が徐々に描かれていく。会社員時代に交流のあった上流階級の人々と、絵かきになってから日銭を稼ぎながら関わっていく人々との対比が鮮やかにされている。絵に没頭し、それ以外のことに関心がない。現代では受け入れられないだろうなあという描写も多々あるけれど、人物がとにかくいきいきとしている。そして矛盾を抱えている。読んだあとから知ったがゴーギャンをモデルにかかれている本らしい。
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誰かについて他のひとに話すとき、どうも「こういう人なのだ」と話してしまいがちである。のだけれども自分も含め、人というのは矛盾している。それを知っているのに、ちゃんと人となりを知り、ちゃんと人となりを話すというのは難しい。
案外、好奇心によって人がなぜそういうことをしているのかを見ている人のほうがすんなり受け入れられるものなのかもしれない。ストリックランドという人はそういう具合に描かれていた。このひとはなんでこういう考えに至ったのだろうなあということを考えるほうが面白い。それがぱっとみわかりづらいほど、実は味があるということもある。しかしながら日々の生活において、わかりづらいことは避けられ、プロトコルに従っていることをが安定をもたらす風合いがある。それが面白いか面白くないかはさておき、共通観念の上にいるのだという安心感はこういう好奇心をどこかに追いやってしまう。
COVID-19下の生活になってから、どうも自分と共通の価値観の人たちとしか混ざらなくなってしまっているという怖さが常にある。飲み会で興味のない話を聞かされる機会も減り、カンファレンスで知らない話を聞く機会も減った。日常の複雑さが減ると、無意識に同一な人たちとの時間を増える。快適だが、そういう生活では長い目でみるとどんどん違うものに対する好奇心が減っていってしまうのではないか。
そんなことを最近は思っているのでした。