2015/12/25

あるとんかつ屋の話

私がよく行くとんかつ屋がある。最初に入ったきっかけは近所でよさそうな定食屋を探していた時に、たまたま通りかかったことだった。

「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えてくれるのは人のよさそうなご主人。一番手前のカウンターにかけ、とんかつ定食を注文し、新聞を読みつつ待つ。店内には常連さんっぽい親子がカウンターに、仕事終わりであろう2人組がテーブル席に腰掛けていた。お店はご主人一人で回されている。親子の方はヒレカツを頼んでいるようだ。色づきが良く美味しそうである。

「はいどうぞ」と持って来ていただいたとんかつ、これが美味しい。普通のとんかつ。ちょうど一口大に切れていて、噛むとちょうど良い柔らかさに。柔すぎもせず、硬すぎもせず、旨味が出てくる。衣の硬さもちょうどよく、ロースの柔らかみと相まってサクサクとした感触を楽しみながら食べる。その勢いでキャベツの千切りを頬張る。そしてご飯をいただく。旨い。ご飯もツヤがあり、ふっくらとしている。セットになっている汁物はコクのある豚汁。これまた旨い。あつあつの豚汁をゆっくりとすする。香りが鼻と口から広がっていく。これまた旨味が出ている。

不思議と食べたあとにもとんかつ特有の重さを感じない。油の加減が良いのかもしれないが、よくわからない。ただ安定して美味しい。いつ行っても、ちょうど良いとんかつ定食が出てくる。 美味しいですね、と話しかけると「ありがとうございます」と嬉しそうに答えてくださったご主人。暖かいご飯が食べたいなぁと足を運ぶと、いつもこの暖かい雰囲気がある。

何度か通うごとに毎回いろんな話をした。とんかつというのはシンプルな料理だ。あるのは豚肉、そして揚げる。揚げる温度が低すぎると、べたっとした衣になり、中の肉が硬くなってしまう。肉が硬くなりすぎないようにするには良い温度の油で、時間を調整して揚げる必要がある。お客さんごとに好ましいであろう肉の硬さも違うとご主人は言う。例えば私の場合にはあまりやわらかくしすぎないように、と最初から調整してあげてくださったのだという。肉の種類はロース、ヒレがあるが、どちらもちょうど良い具合で出していただいた。ヒレはロースに比べて脂身が少なく淡白な印象を持っていたが、ここで食べてから印象が変わった。ヒレでも揚げる時間をうまく調整すれば、旨味を閉じ込めて揚げることができるのである。この旨味を閉じ込めるというのも揚げ物の技術のようだ。ステーキなどもこれに似ており、最初に表面をじゅっと炙っておいてから、時間をかけて中を温めていくと、旨味が逃げづらくなるのだ。 肉を選ぶときは食べて確かめるのですか、と聞けば、「見て、触ればわかります」、という。板前さんが魚を見定めるように。人の手のひらの触覚はすごいものですよ、とご主人は言う。

このお店はいつからやっているのですかと聞いてみる。なんと40年も続いているらしい。今の私と同じ歳で開業して店を始め、それからずっと同じ場所で、同じとんかつ屋を続けている。お店の移り変わりの多いこの付近で、そんなにお店を続けられるものなのかと驚いた。

「プロフェッショナル仕事の流儀」で岡村隆史さんと歌舞伎役者の坂東玉三郎の対談に、こんな言葉があった。

あのね、10年先とか20年先とか、ぼやっとしたイメージはありますよ。
でもね、10年先の目標を作ってその通りに行かなかったらどうします?
だったら、今日と明日、明後日ぐらいまでを充実すれば
自然と10年先に目標じゃない方にいけるかもしれないじゃないですか。
目標を立てて道が変わった方がいいときに
方向転換できなくなりませんか?
ただ、目標のない目標、たとえば、10年後体がちゃんと動くようにとか
どういうものができるかなって考えはあるよね。
でもできなかった時に、できないんだなってその場で思えないと
目標に行かなかった時にストレスになりません?
それだったら今日と明日をちゃんとやれる方が
自然と先が導かれるんじゃないかって気はする。どうですか?

http://ami-go45.hatenablog.com/entry/2015/10/27/173925 より

ご主人は笑顔で言う。「長く休んだことはね、一度もないんです。病気ももらわなかったしね。厳しい時はあったけどね、体を動かすしかないですから。40年てね、あっという間なんですよ」と。