あるときプログラマになろうと志した。自分が大学生のときだった。どんな仕事をすることも、何もわかっていなかった。プログラムを書くことで、少しだけ動くものをつくって、手触りのある形でなにかを提供できるようになるかもしれない。そういう気持ちが少しずつ大きくなり、プログラマを職業として選んだ。
その後、チームでプログラムを書き、長くソフトウェアをメンテナンスし、事業としてプロダクトをつくることを学んだ。多くの人と会い、技術や社会や経済について語り、1つ1つをつくるプロダクトに込めた。多くの価値観が混ざって、議論して、考えて、ものに変えてきた。
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いつからか、自分は社会をつくっていた。社会にはいって、会社のなかでプログラムを書いて、給料をもらって、なにかをつくるのを仕事にしていた。社会はもとから用意されているものだった。会社で働ければ給料が払われ、マネージャーがいて、経営者がいた。勉強会に行けばたくさんのエンジニアの人たちと会う機会があって、他の会社のやっていることがIRみれて、本を読んで知ることができた。それらはみんな、もとから用意されていたものだった。あるときまでは。
あるときから変わった。面接官をしていると学生と話す。すぐに社会のマスクをかぶって、社会の先輩として学生と話す。マスクをうまくかぶれていても、あるいはちょっとうまくかぶっていなくても、学生は社会と話す。話していると感じる。それがうまくなくても、話を足し合わせて社会像を作り上げていく。ちょっと前々で一緒に遊んでいた人たちが社会に出ていく。そして社会の香りをもって、話をしてくれる。そういう場で少しずつ社会のなんたるかを嗅いでいく。
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自分のしていることは、あるときから社会だった。ソフトウェアを信じてみたり、オープンソースソフトウェアの素晴らしさを感じてみたり、広告について話すとき、それは社会のメッセージになっていた。巨大な社会に、雨粒ほどの大きさもないメッセージを落としていた。自覚はなくてもそれはメッセージになっていた。どれだけ考え抜いてもすべてのことを完璧に考えることはできない。けれど毎日なにかを感じ取って、知って、考えて、1つ1つ伝えることを磨いていく。磨いていかなければ、社会はよくならない。
社会がよくなるも、よくならないも、自分たちそのもののあり方である。しかしながら、社会は大きすぎる。だから大きな流れを変えることはできないと思ってしまう。いま残念に思っていること、こうであってはならないがこれは社会のせいであると思っているようなこと、歯がゆいこと、それは他人のせいであるようで、自分たちのせいである。誰かに何かを与えたいと思うなら、社会のマスクをかぶって、わたしたちはそれをやらないといけない。